坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

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音楽をつくる① そのルール

 誰でもつくってみんなと楽しめる音楽を記してみる。

 要は音楽になるインストラクションやヒントで、そのママでも直ぐ誕生するが、それは私の音楽世界である。しかし仲間とそれを基に「ルール」をつくり、自分たちで「即興」を加えて行くと、オリジナルな世界が生まれる。

★楽器=各自、スプーンや鉄片、クギ、風鈴、リンやレイ(仏鐘など)から二三糸で吊り下げて音がのびるようにセット。それを叩くもの(ハシやバチ)一本。またはリラベルやハンドベル、グロッケンシュピールなどピッチのある楽器でもいい。音選びは一人二音の高低ならどれを選んでもいい(ドレミソラなどの五音に限定してもいい ※この選択は別案でも使える)

★演奏法=開始と終了のルールや音での合図は、その都度参加者で決める。

一つか二つの音を出すタイミングは、各自一秒を一拍として10までのうち、一秒目と8秒目など決まった「パターン」を基にする。音素材を二つ持つ時は、一つずつ2秒目と8秒目でもいいし、各秒毎にキーン・チーンと二回連続で打ってもいい。秒は少しズレてもいいし、誰かのリズムを聴いたら、パターンを崩してそれに「応答」(マネて)して打ってもいい。

 ゆっくり移動(歩み)しながらパターンを繰り返し、即興によって反応し合う仲間と「会話」して楽しむのもいい。

 カウントを数えるのが苦手なひとは、ゆっくり息を吸って、吐いて、その吐いて次に吸うときまでの間に一つ音を出す、というルールでもいい。

 自分の音を聴く、仲間の音(応答も)聴く、誰かと合わせる、全体の音世界を聴いて楽しむ。みんなが応答で盛り上がっても、静かな世界のママでもいい。

 <楽譜のない音楽も大切なため、あえて楽譜例を掲載しない>

★演奏場所=演奏ホールヤ教室などでもいいが、広場で音を聴き合える距離を取って演奏すると楽しい。例えば神社・仏閣などの広場で演奏すると自然界(木々や小動物の鳴き声)とも一体になれるかもしれない。

 様々な種類の楽器が鳴り響き合うと、それはシンフォニーになるだろう。

神宮司 聖(じんぐうじ せい)

 昔の話しを載せるのはどうかと思っていた。何時も最新がいいからだ。でも一つ載せてみたくなった。自慢話ではない失敗談は大切だと思った。

「神宮司 聖」という名前を知っている人はごく僅かだ。私のペンネームで、大阪城が落城した時に、そこで祀られていた地蔵菩薩を授かり、昭和の時代に八王子でそれを御守りしていた行者さんが名付けてくださった名前だ。

 現代音楽とは別に、大人から子どもまで人びとに愛される「うた」をつくるひとにふさわしい名前が宜しい、というのが理由であったが、しかし「神様のお宮を司る聖人」とは恐れ入ってしまった。顔から火が出て、穴があったら入りたい気持ちもあったが、拝命には意味があるだろうと感謝した。

 丁度、宗教団体の愛唱歌をつくらせていただいていた時期だったので、早速名乗ってみたが、一番大きな出会いは歌の女王「美空ひばり」(日本コロムビア)嬢との仕事だった。

 プロデューサーは「ひばりというと英知の限りをつくして難しく書いてしまう。うんと簡単な、誰にでも歌えるうたをつくって欲しい」という依頼だった。

 電撃トレードで阪神から巨人に移った江川 卓が話題になった年、ひばり嬢が低迷期で世間さまから叩かれ苦しんでいた年にリリースされた。

 簡単なうたで多くの人びとに喜ばれるなら最高の慶びだが、しかし大きく外れてしまった。「センセ、私と組んでソンしたひといないから」という励ましは嬉しかったが、簡単なうたがつくれない聖がトコトン名前負けしてしまったことは、あらゆるひとびとに申し訳無かったと今尚ながら思っている。

 ※ CDでも売られているが、Youtubeで美空ひばり「昭和ながれ花」がのっている。当時の B面「ふる里は遠い空」も出ているようだ。

朗読劇

 感情を込めて物語を読み上げること、が朗読に違いないが、この頃感情はもちろん込めるのだが、淡々と本を読むだけで無くなってきた。物語の主人公になりきって演じる舞台も、市民が出来るようになってきた。本は持っているが、本も表現の小道具の一つになっていき、顔の表情も目線も演劇と変わらない演出も定着してきたようだ。

 市民ホールで朗読の講師を前任者から引き継いだことが私はあった。前任者はNHKのアナウンサー・プロデューサーの経験者で、滑舌や読み上げる基礎から市民に教えていた。でも行き着くところは NHKのアナウンサーが理想に見え、誰が読んでも同じ品質が保証される読み方のようだった。

 もっと本から感じるまま表情を全身で現していい、抑揚だって必要に応じて付けていい、舞台の上なら歩いても飛んでも寝て読んでもいい、というのが私の考えだったから、市民(多くは女性)は自由に恥ずかしがらずに堂々と、いや豪快に表現し始めていた。

 朗読のコンクールが東京であった。会に所属の市民グループ有志が挑戦した。何でもアリの彼女たちは舞台全体を使って囁き、絶叫し、飛び回った。審査員は誰も顔を上げず聴いていた・・・結果「合格」通知が届いた。コンクール主催者が会費を払えばステージに乗れる、という誘いまで付いたが、その合格者は断ってしまった。誘った方は「こんな名誉な話しにどうして参加しないのか」食い下がったようだが、「コンクールという場で表現してみたかっただけ」というのが自由な市民表現者の感想だった。

 気の毒だったことは、私の講座受講後に、地方の文化施設で朗読クラブに加入のオーディションに参加すると、「朗読ではない」と言って入会を断られてしまう人が出たことだった。そのくらい今でも保守的な分野かもしれない。

ピアノと物語

 「座・高円寺」という劇場は、東京杉並・ JR中央線「高円寺」駅傍にある。演劇・ダンスを中心に優れた舞台芸術の公演・創造・発信事業を展開していて、「高円寺の阿波踊り」の拠点にもなり、地域に根ざした文化事業を展開している素晴らしいシアターだ。

 その劇場で毎年12月になると「ピアノと物語」という魅力的な企画が公演されている。一つはショパンのお話・ピアノ作品の演奏が組み合わされた朗読劇「ジョルジュ」。もう一つはガーシュインのお話し・ピアノによる同種の「アメリカン・ラプソディ」だ。作=斎藤 憐、演出=佐藤 信。

 作曲家の物語の展開に合わせて作品が演奏される。演劇のステージと音楽会を一晩同時に舞台に乗せた企画だ。それも超一流のピアニストが演奏し、実力派俳優が演じるのだから、凄まじいステージになっている。

 前年はガーシュイン役のピアニスト「佐藤允彦」氏の演奏と共にタイムマシンに乗ったので、今回は「関口昌平」氏のショパンを楽しんだ。氏は第15回ショパン国際ピアノコンクール入賞者で、凄まじいショパン芸術を表現していた。豪快な骨太い音楽づくりと繊細な響きや歌は、満席の観客を感動の渦に巻き込んでいった。沢山の人びとのショパン芸術を聴いてきた私だが、芸術をも越えた心の芯を揺さぶられた氏の演奏に、言葉にならない深い感動を覚えた。

 ジョルジュ役の竹下景子、ミッシュル役の植本純米の俳優諸氏も凄い。

 毎年「第九」のように楽しみにしている人びとが増えて来たようだ。この企画も地域に根付くように思った。飛行機に乗って来て楽しんでみたいひとでも、納得の二時間半に心から震えるはずだ。

謹賀新年

 あけまして おめでとうございます

 本ページにご訪問くださった全ての人びとに感謝し、ご多幸をお祈り申し上げます

 これまで「一流の劣等生」である私の慢心創意*による音楽を中心に、馬脚を露わしながら文化芸術の一端を語って参りましたが、今年もみな様とより強烈に交流させていただきたいと願っています。

 (*慢心創意は満身創痍からの造語)

新版・リサイタル

 歌や楽器演奏など、ひとは誰でも師や先輩、仲間から学び、苦労して体得した音楽を他人に聴いてもらいたいモノである。拍手が励みになり、より高く深い世界に向かい、日々の厳しい練習にも耐えられるようになり、結果優れた芸術を披露出来るようになるからだ。

 そしてリサイタルなど大規模な企画に向かって行くことになる。しかし多くの場合、こんな迷惑な企画はない。師から学んだ音楽を披瀝するレヴェルは、好意・付き合いで聴いているのであって、表現者の自己満足の会が多い。実績を積むことに付き合わされては、辟易して時間の無駄に感ずるひとも多い。

 それでも私はリサイタルが悪いとは言っていない。コンセプトを見直すと、面白いリサイタルは人それぞれのアイディアで多くの人びとと共有できるようになる。 

 SDGsだって当然核になる。全体が30〜40分のステージや広場の演奏でいい。何処で表現するか、誰と組むか、その社会的な連動が大切になる。何曲も演奏し続けるのではなく「もっと聴きたい」と聴き手が期待する余裕が必要だ。学んだ音楽を並べるのは素人芸だ。プログラムの頭に今回の「私の十八番(おはこ)」、次に聴者の多くが知っている名曲。次に集まったみんなが参加できる歌や演奏を一曲。ここに「音楽づくり」によるみんなとの一体感が生まれるスペースが加わるといい。そして同じ仕組みでできている音楽を演奏する。最後に新しい音楽か、自分のコンサートのテーマになる音楽を一曲。そして短いアンコール曲。以上で十分だ。これなら毎月だって、数名集まるところなら何時でもできる。

 結婚式の延長の様な服もいらない。小綺麗で活動的な服がいい。10名前後の聴衆で十分だ。積み重ねて行くと、ファンが増え、チケットだって必要な企画も生まれるだろう。文化施設の大ホールまで拡がる企画もあるだろうが、原点はサロンのような場所で経費が掛からない企画がいい。学校や広場なども加わり、それらは立派な社会貢献活動になる。

 ・・・と説明しても「リサイタル」というイメージで、いきなり切符を夢中になって売って、何百人も集め二時間小ホールで頑張るひともいた・・・

※「音楽づくり」のコーナーのために、演奏が始まる前に1〜2時間、参加者と音楽ゲームや音楽づくりを楽しみ、その「まとめ」としてプログラムに載せると楽しい。

 

音楽をつくる

 最初に誤解が無いように申し上げておく。それは音楽をつくることは誰にでもできるという意見や、ピアノは誰でも直ぐに弾けて演奏を楽しめる、という表現が誤解を生むからだ。「音楽をナメているのか」と叱られそうだ。作曲も演奏も、何十年も努力をしても奥深く、誰もが納得がいくような名人の域に達するものではない、という至極当然のご意見を誰もが持っているからだ。

 管楽器でも弦楽器でも、一音気に入った音を出すのに何日もかかることがある。ピアノは指一本でも簡単な音楽は直ぐ出来るし、歌も聞きかじり程度なら直ぐ弾ける、ということは誰でも知っているだろう。

 子どもでもいい音楽は沢山つくれるし世に溢れているが、多くの人びとの心をノック(ヒット)する音楽は、そうそう生み出せるものではない。しかし、簡易楽器や打楽器などで、技術を持たない人びとが、自分たちの持ち合わせた情報や技術で音楽が生まれる構造をヒントとして共有すると、誰もが直ぐ音楽をつくり合うことができる、という例である。

 音楽をつくってみると、自分のなかにある音楽を仲間と共有できること、仲間の音楽を聴くことにより、他人の価値観を大切に出来ること、そして同じ目線でひとと寄り添えること、古典の名作や文化芸術に、またそれらをつくり、演じ、護る人びとをリスペクトできる、ということが生まれるのだ。だから、いい音楽がつくれたかも大切だが、様ざまなリスペクトが培えることが大きいのである。

故事から新事

 詩人の谷川さん、波瀬満子さんたちがつくった「ことばあそびの会」は以前ここでふれたことがある。一つの言葉やその切っ掛けから連想する世界をふくらませるのは、音楽をつくることと同じで、随分トレーニングさせてもらった。ダジャレも多く、言葉を大切にする人びとからは嫌われたが・・・

 「青天の辟易」というのがある。晴天時に突然雷が鳴る(霹靂)ことと同じで、突然何かが起こることにうんざりするというシャレだ。

 「君子危うきに近寄らず」という言葉と「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という故事がある。しかし「虎穴の出口で虎児を待つ」となると意味深で、様ざまな場面が空想できる。

 子どもの頃に「鳴かずんば 鳴くまで待とうホトトギス」『・・・鳴かせてみようホトトギス』『・・・殺してしまえホトトギス』という有名な句に出会った。家康・秀吉・信長を良く表しているといわれた。それを「鳴かずんば 自分で鳴こうホトトギス」と言って、子ども仲間に受けたことがあった。ところがその後、同じことを言って知事になった人がいた。有名人の宣伝文句に私はすっかり白けて、以後封印してきた。

 同種のあそびは一冊の本が出来るほどあるが、その内容に価値があるのではなく、温故知新はその種のあそびから誰でも面白い創造への誘いがあるように思われる、というサンプルとして思い出した。

校内流行歌禁止

 校則の見直しがニュースになっている。私の子どもの頃だってヘンな校内ルールがあって、校内で社会を学ばせてもらったことが多かったようだ。
 いつの時代のどの学校にも「聖職」を地で行く先生がおられたなか、「愛のムチ」(暴力)を振り回す先生もいた。明確な理由もなく坊主頭にされたし、あれはイカン、これはダメの、でシバリまくり、先生は児童生徒を護ってくれない、裏切るのは当たり前で味方や理解者にはならないのが大人だと教えてくれた。

 ヘンな代表例が「流行歌を校内で歌ってはいけない」という指導だった。生徒は世の流行に敏感だ。歌だけではなく何でも話題に触れてマネてみたいモノだ。ところが流行歌を歌うと、映画館に行くと不良になる、というのが理由で禁じられていた。一時ビートルズの歌やカッコをマネるのは禁止、と教育委員会が文句を付けたことは有名な話しだ。でも子どもの個性はそれらのカベを乗り越えて価値観を豊かに培って行ったようだ。

 みんなで考えつくった社会のルールは護らなければいけない。しかし流行歌を含む文化芸術などの個人の選択は、先生が禁止する行為は人権無視にあたる。
 ルールはドンドン破られるから面白いのだ。そう、名曲にある作曲者の作品番号は「前科何番」を意味しているから、今でも新しいのだ。

アマチュア音楽団体

 クラシック音楽界全体にもいえるが、音楽団体の環境も、技術・実力など数年前と随分変わって来ている。ここではアマチュア音楽団体に限って話すが、10年前と、いや3年前とも変わって来ている。「昔はこの団体はヘタだった」という評は一気に偏見に変わってしまう。指導者も勉強しているし、プロのトレーナーの参加もあって、またそれらの環境を整える資金も集める努力があると、見間違えるほどの成果を上げる団体になっていたりする。

 私は可能な限り毎年全国何処にでも出かけて行って聴くことにしている。噂や他の人の耳目を信用するのではなく、常に進化する団体の表現は、自分の耳で確認するのが一番だからだ。それは財団の助成金審査などでの判断には必要なことでもあるのだ。団体の現状を知らないで「いいと思うよ」って無責任だと思うからだ。

 11月末、ハーモニカ・アンサンブルを聞きに佐賀県まで行った。
 実は、私はハーモニカのアンサンブルは学校で子どもたちが吹く音楽以外知らなかったのだ。いま生まれている音楽を、私の耳でも評価させていただきたかったからだ・・・ 低音から高音まで生かされた楽器群が、編曲の腕で対旋律も豊かに、オシャレな表現をされていた。もちろん発展途上で、アンサンブルにはまだまだ新しい表現の可能性が残されているようだが、高齢者まで楽しんでいる音楽を聴くと未来が明るく輝いてくるようだった。

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