Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 文化事業 /CULTURAL PROGRAM

歌のひろば②

 一握りの声楽家以外、1時間ものステージを歌い続けて聴衆を魅了できる人はいない。一般的な声楽家のステージで、前半・後半と分け、途中休憩を挟んで2時間のステージは暴挙だ。本人の音楽力や体力も大変だが、聴き手の辛抱は限界を超えているからだ。
 せっかく切符を買ってホールにいらしていただいたのだから30分では高すぎる、と思われることもあるようだが、結婚式など全ての祝辞に共通する話だが短いに限るのだ。

 広場で、自分も歌うが、参加者と一体になって歌い合うことや、参加者の歌を聴いて楽しむことが加わっていれば素晴らしいのだが、それは無理な話のようだ。
 聴衆は聴く役だと思っているし、歌い手は自分の世界を披瀝して拍手をいただくモノだという概念から抜け出せないからだ。
 でも歌い手の元に人びとが集まり、一緒に歌い出したくなる環境もあり、みんな楽しく一体化できる広場があることが素晴らしい、と思っていたがなかなか賛同する人が少なかった。これからそんな広場が当たり前になっていくと思っているが・・・

歌のひろば①

 リサイタルには固定イメージがある。歌のリサイタルに絞って話そう。
 誰もが想像するリサイタルは、二千人のコンサートホールは別格として、数百人の座席数のホールで、男性は燕尾服、女性は結婚式のようなロングドレスで、90分前後のレパートリーを歌う会だろう。
 夢のようなひと時を共有できるスペース・・・と思っているのはステージで歌う人。義理と人情で成り立っているコンサートがほとんどだ。30分以内なら我慢できるところだが、人の迷惑を考えないで、自分の価値観を多くの人びとに押し付けたい人には、なかなかそのヘンを気付くことが少ない。

 今はステージの上で歌いまくり、拍手喝采を糧にすることは、時代錯誤だと言える。勉強の成果を発表するには時代の空気を読んだ方がいい。質のいい情報がメディアから日常的に確保できる時代に、スターの真似をする価値は薄い。

 「ひろば」でいい。サロンや(許可を貰って)ロビーでもいい。持ち運ぶ可能な伴奏楽器か、パソコン音源でもいい。五人でも十人でもいい。自分の歌はオープニングに1曲。後半オハコを1曲。フィナーレに1曲。アンコールがあればもう1曲で十分だ。回数を重ねて「また聴きたい、一緒に歌いたい」人が増えていけば、ステージでの交流もあるだろう。

 その3曲プラス1曲の合間に、参加者と歌うこともできる。主役の歌い手が「聴き手」になることや、同じ歌う仲間になってコミュニケーションをとることが社会活動としてならば大切なのだ。「雲の上の人」になって聴かせるだけがいいわけではない・・・というアイディアを話すと、歌う人は飛びついて賛同する。しかし結果は切符を売って、スポットを浴びて2時間も歌いっぱなしの企画になってしまう。何かヘンだ。

学校と文化会館

 学校は教育の場だから「教育プログラムを持っている」という言葉は相応しくない。一方、文化施設は教育機関ではないから、その言葉は越権行為になることもある。当然次世代の育成を考えてだが、大きな違いがある。

 学校は「教育」としてカリキュラムが組まれている。だから手順や教材も決められている。一方文化施設は学校でないから、参加者を教育として指導することはない。多くの場合は「サーヴィス・プログラム」である。一回つまらなかったら来なくなるから、面白く、可笑しく、楽しく遊ぶスペースになっている。そこに成果を求めるというよりは、音楽が好きになってくれた、文化会館のステージ企画に来てくれた、というポイントが優先される。

 学校と社会が連動して、文化芸術が教育というニオイから外れて、連続する活動から質が高くなっていく、というプログラムはなかなかできないでいる。

そこに学校と社会との垣根を超えて文化芸術が深く理解・応用ができればいいのだが、様ざまな価値観や生活感を持っているだけに、その活動に筋が入った連続性は望めないでいる。

 簡単な話し、社会の芸術プログラムは、教育・メディア・音楽・(時には)子どもの専門家がブレーンとなって挑戦し続ける必要があるのだが、なかなかそこに到達していない。これからの時代に自然と組み込まれていくだろうし、私はそれを期待している。