坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

七変化と顔音痴

 主役が変装する映画があった。七変化、七つの顔、黒頭巾など、主役が多種多様な変装をして活躍する物語だ。子どもの時は、その変装が誰にもバレないのだと思っていた。少なくとも私には少し化粧だけでも変えられると別のひとに見えたのだ・・・それを顔音痴ということに大人になってから気がついた。

 顔を覚える、名前を覚える、直ぐに覚えて忘れない、それを間違えない・・・コミュニケーションの基本だ。友だちになる第一歩だ。警察官だけでなく、接客商売のひと、先生業には欠かせない能力だ。それが欠けているひとの苦労は大変だ。特徴をつかむことができないひとは絵の写生も怪しいことがある。絶対間違えないと思って声を掛けて恥をかいたことが重なると、知っているひとと顔を合わせても数秒確認の間が生じてしまう。

 絶対忘れないようにするには、そのひとの出している音を記憶する以外手がない。まるで野生の動物だ。それでも、待ち合わせの場所で顔が分からないでウロウロして相手に嫌な思いをさせてしまうことが何度もあった。

 方向音痴のひとは結構いるが、笑い話で終わることが多い。しかし対面で相手を判別する能力に間があると、友達としての信用を失うことになる。顔に興味が無いわけではないのに、ピントが外れた能力は何年経っても修復ができないできた。

一生の即死回数

 切られて死んだの 五万回~ という歌があった。チャンバラの、切られ役の歌の意もあったが、実際は私を含む仲間たちにも当てはまる歌だ。

 剣術遣いは死と向き合っている。相手の技量も読めずに剣を抜いたら、一瞬のうちに殺されてしまう。体育会系の勝負は、見合った瞬間に勝敗が分かってしまう。やってみなければ、と呑気なひとには命が幾つあっても足りない。

 文科系の世界でも、議論で即死を迎える人がいる。技量が無いだけでなく、資料や勉強不足、相手との間合いや急所を捉えることと、相手のそこへの攻撃で葬り去られることが良くある。剣を持たないでも、言葉だけで即死になることが一生の内に何度もあるようだ。

 いらんことを言い、タイミングや言葉選びを間違えると、場外退去となる。取り返しのつかない場面が一杯持ったままの老人もいる。

 アイツはダメだ、いらんことを言っている、もう殺されている、と五万回も言われて生き長らえたのは、私だけではなさそうだ。

 剣や鉄砲を持ち出さない生き方だが、それでも生きて来られたことは、人びとに対して畏敬の念や感謝を持って生きていないと、もっと酷いことになるということだろう。

学校の音楽・校門から入出

 音楽、校門を出でず、という言葉があった。今はポップスでも教室に入り、習った歌も校門から出て行くこともある。児童・生徒にはそれぞれ好きな歌手や歌がある。それを教室で学び、みんなと共有することに不思議な感覚を持つこともある。また一方的に勉強させられる歌に共感を持つことも大変だ。

 学習指導要領があり、何をどう教えるか決められている。それに合った教材はなかなか無い。畢竟、編集部員がペンネームで狙いにあった歌をつくることにもなる。それを「猫なで声でつくるのではなく」と私が評してヒンシュクを買ったことがあった。

 もう学校で教わらなくても社会にはひとそれぞれが愛する音楽があるからいらないのではないか、と平気で言う学識経験者がいる。音楽の大切さは誰もが知っているから、わざわざ教室で学ばなくても、という意見だが、学校で取り上げる学習という概念とシステムを忘れるとどうなるかを、私たちは知らなければいけない。

 いい歌は校門の内外に多数ある。出入り自由だ。社会でヒットするかだけでなく、どんなハンディがあっても自分たちでつくった音楽が校門を行き来するようにもなると、生きた音楽の社会との交流にもなって行くと思う。

根性練習

 昔ほどではなくなったが、学校の音楽クラブで今でも良く見かける光景がある。合唱クラブにもあるが、ブラスバンドの練習風景に多い・・・指導者登場の「起立・礼」から始まり、小気味好い体育会系の応答。そして演奏に。次第に出てくる指導者の注文。今の音は何だ!心がこもってない!もっと歌うように弾け。返事(の声)が小さい!「ハイ!」。どうしたら心がこもった演奏になるか、どう歌うのがいいのか技術的な説明がない。「気合いを入れている」と豪語するひともいれば、ペナルティーで「グランド1周(10周)」、ウサギ飛び何回か、なんて体罰まであった。

 ピッチから、合わせるポイントから、響きあう術から決めていく。機械とニラメッコし、先輩の顔色を伺う、仲間に嫌われないいい子になって、その間隙(感激求めて)をぬって「でも綺麗になりたい」想いで一杯になる。結果、「あなたがたが他の人びとより美しかったわよ<金!>」と言われて狂喜する。

 ここにコミュニティがあり、人格が磨かれていくスペースにもなっている。そしてここでの揺籃期が日本の音楽文化を支えていく現実もある。素晴らしくリアリティのある感動を伴う活動だが、音楽はワクにはまらない危ない創造性を見失うことがある。精神論、根性論も必要だろうが、論理的に説明できるところと、理屈を超えた領域に自己の可能性があって、それらとの共有がいつも問われていると私は思っている。

一音曼荼羅

 演奏会で、楽器を持参した演奏者が登場する。ルーティンでチューニングの意味も含めて音を一つ二つ出すことがある。実はその一つの音で次に表現される全ての世界が予告されている。
 一節(ワン・フレーズ)演奏する。冒頭の音よりも、フレーズの尻で技量が分かる。コンクールだとそれで本当は点が出ていることがある。

 音そのものの優れた世界や、フレーズの歌い方一つでその演奏者の技量が出ている。テストで(観客の後ろを向いて)音を試演しても、本番以上の世界が既に語られている。演奏する前の佇まいで音楽曼荼羅が聞こえているわけだ。だから序の段階で、熱してクライマックスに達する前に、勝負あったということになる。ステージの上では全てがアートなのだということだ。

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