Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 音楽会評論 / CONCERT-CRITICISM (Page 1 of 2)

現代音楽の名曲新釈 ②

 故・矢代先生とは東京文化会館の階段でお逢いしたのが強烈な印象を持っていた・・・「あなたの音楽を私は支持します」と真剣な顔で仰ってくださったが、直ぐ後で亡くなられてしまった。
 反対に、雪の降る有楽町の街角で私と言い争いをした作曲家の先生がおられた。「キミ、音楽は結局メロディーだよ」という意見に、私は一面的なコンセプトに反対意見の喧嘩を売った論争だった。
 コンテンポラリーの発想では、メロディーそのものも従来とは違う切り口を若い人びとは求めていたからだ。
 でもその人「松村禎三」は名曲を数多く残しているが、「ピアノ協奏曲」(1番と2番がある)のドローンには参ってしまった。ドローン<低音の持続音>の上ではピアノだけでなく、オケの様々な楽器がつむぎ合って歌を広げていく。
これまた誰にでも分かりやすいし、民族音楽にもあるように音楽の基を成しているし、既に教材化されているほどのスタンダードな構造なのだ。これは子どもにも理解できるし、この曲を参考に「音楽づくり」も可能なのだ。凄いと思った。
 なかなか再演されることが少ないが、でもこの曲は何時迄も人びとに松村先生の信じるメロディーの基が紡ぎ出されていくように思った。

現代音楽の名曲新釈 ①

 20世紀後半、日本の現代音楽作品はかつてないほどの名作が生まれていた。日本の天才作曲家諸氏が珠玉の名作を生み出した時代だといえる。
 海外で高評価された作曲家作品は、私たちも良く知っている。歴史に残る名作の数々に圧倒されている。一方、海外のオーケストラ公演でも紹介されたが、あまり評価されていない作品も多かった。ヨーロッパの伝統的な様式に則った作品など、欧米の専門家諸氏から失笑されたりした。

 矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」の第二楽章についてお話しする。ドレミのドの音のリズムパターン(オスティナート)が繰り返されるなか、弦が緩やかな歌を浮かび上がらせていく。子どもの頃に眠っていてウナされた響が元になっているそうだ。エピソードはともかく、誰にでも分かりやすく、イメージも人それぞれに掴みやすい。その分かりやすさというのが大きな魅力だ。それがあると、第一楽章や第二楽章も理解されやすくなる。子どもなど、こんなエッセンスから自分の世界に矢代作品を迎え入れてしまうような気がする。

 日本のあるオーケストラによる海外公演では、散々だったようだ。国際的に活躍していた共演のピアニストには「何でこんな曲に入れあげた演奏をするんだ」とまで言われたそうだ。
 でも時間が経つと、多数の聴衆がイメージを膨らませて、作品の優れた世界を敬愛して行くような気がしている。

子どもの企画 ②

 邦楽器のアンサンブルと、ミュージカル、物語が加わったステージを時々拝見することがあった。企画・制作・演出に、出演者の誰もが「子どものために」一生懸命な成果を披露している。

 その大人たちだって子ども時代があったはずだから、子どもが何を理解して、楽しみにするかは承知のはずだ。

 ところがステージをつくる大人たちは、子ども時代を、子どもの感性を忘れたような、自分たちが信じる「優れた芸術を提供」していると思われる上から目線のプログラムになっていることが多く、今更ながら驚かされてしまう。

 邦楽の場合、どこまでもお師匠さんと弟子であって、音楽を楽しむ友だちではないのが不思議だ。そして「いいことをしている」という自負心が残るから、この種のプログラムは半世紀も進歩がない。

 方楽器の演奏に合わせてダンスとミュージカルの歌声やセリフなど、異種格闘技のようなステージが悪いのではない。いいものを集めたらいいものになるという安易な制作が問題なのだ。こどもがふくらませる世界と遊離していることへのチェックがないことが問題なのだ。そしてこの感覚はまだまだ続いていく。

子どもの企画 ①

 音楽会場で子どもの音楽企画を私が鑑賞する時には、必ず見聞する位置がある。招待席のような正面ではない。前の方の両サイドか、二階以上の席でも(あれば)サイドの席だ。どちらかというと安い席かもしれない。横から後方の席が無理なく見渡せる席がいい。理由は子どもの反応や顔が見えるからだ。

 演奏会や演目によっては、子供が身じろぎもしないで、まるで魂を奪われたように見聞きている演奏会もある。バレエなどでも、友だちが出ていたりすると、身近に感じて楽しんでいるようにもなる。楽しいと、またウケたりすると、ワッと湧き上がり、頭が左右に動く。隣に座っている親の顔や、他の仲間(子どもたち)の反応も気になるが、何よりもステージと一帯になっているからだ。

 いかに子どもの企画だといっても、飽きるとすぐに頭がグラグラ揺れ動くようになる。落ち着かない仕草が出ると、ステージとの接点は希薄になる。必ず親がお行儀を理由に説得する光景が出てくるからすぐに分かる。

一音曼荼羅

 演奏会で、楽器を持参した演奏者が登場する。ルーティンでチューニングの意味も含めて音を一つ二つ出すことがある。実はその一つの音で次に表現される全ての世界が予告されている。
 一節(ワン・フレーズ)演奏する。冒頭の音よりも、フレーズの尻で技量が分かる。コンクールだとそれで本当は点が出ていることがある。

 音そのものの優れた世界や、フレーズの歌い方一つでその演奏者の技量が出ている。テストで(観客の後ろを向いて)音を試演しても、本番以上の世界が既に語られている。演奏する前の佇まいで音楽曼荼羅が聞こえているわけだ。だから序の段階で、熱してクライマックスに達する前に、勝負あったということになる。ステージの上では全てがアートなのだということだ。

シューベルトのピアノ・コンチェルト

 シューベルトにピアノ・コンチェルトは無い。ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調のピアノとオーケストラのための演奏用バージョンのことで、この度「吉松 隆」氏の編曲で初演された。

 シューベルトの晩年の最後の作品で、ピアノの原曲だけでも名曲の価値はある。それにオーケストラが加わると、蛇足に思えないか心配でもあり興味津々で聴きに行った。

 白黒の写真がフッと色彩を帯びるように、ピアノがオーケストラの響きの中に溶け込むように空間を包んでいく。余計な手を書き加えていない。作品に畏敬の念が込められた祈りがピアノを包んでいく。

 通常の二管に弦楽とティンパニが加わる編成だが、そこにグロッケンシュピールが加えられていた。普通ではありえない編入だが、実に効果的な世界を生み出していた。この後に続くロマン派の世界を呼び込むようでもあり、チェレスタの活躍を予言するようなスペースを感じさせていた。編曲したシンフォニー作家の吉松氏の美事な宇宙が拡げられて行った。

 テーマを基にしたピアノとオーケストラの歌い合いも自然で心地よい世界への誘いを感じたが、元々ピアノとオーケストラの協奏を書いた作品では無いために、オーケストラの活躍は控えめになってしまっていた。しかし、ラベルが「展覧会の絵」を書いたような域にもあるようで、これは色々なピアニストやオーケストラが採り上げていただくと楽しいと思った。

 田部恭子のピアノは素晴らしかった。藤岡幸夫指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が熱演。2022年1月29日・ティアラこうとう 大ホール

音楽と落語

 音楽とコラボレーションする企画は、今始まったわけではない。 ダンスやドラマでも自然なコラボレーションになっている。

 落語とコラボレーションする企画がある。最初は異質なようで戸惑った人もいただろう。落語はひとりで表現する語りの世界で、そこに音も伴っているかからだ。音楽も芸人の仕草で感じる、と言われても不思議でない総合芸術でもある。

 そこにジャズとのセッションや打楽器や室内楽の人びとが加わると舞台芸術が変わって見えてくる。

 即興で落語と対峙するひともいれば、演目に会わせて五線紙に書き込んで合わせて表現するひとたちもいる。書いて事前に用意してあると、それはドラマの「劇判」と同じで、背景や感情をデフォルメすることになる。何の不自然もスリルもないコラボレーションだ。

 即興で対応するひとのなかには、お互いに息を合わせて、或いは様子を見ながら合わせていくこともある。みんな優しい思いやりがあっていいのだろう。

 劇判になるなら音楽をステージで一緒に演ずる必要は無いだろう。そして即興なら、話芸に切り込んで対話できる鋭さがあった方が面白いだろう。同じ舞台芸術でも「異種格闘伎」は、あそびとは違う創造と破壊があっていい。様子を見ながらのごまかしはお互いの芸術が停滞してしまうだろう、と私は思ってきた。ところが私の考えが吹き飛ぶように、お客さんは喜んで満足して帰る人が多いようだ。社会には新たな領域の「音楽落語」が浸透しているのかもしれない。

ピアノと物語

 「座・高円寺」という劇場は、東京杉並・ JR中央線「高円寺」駅傍にある。演劇・ダンスを中心に優れた舞台芸術の公演・創造・発信事業を展開していて、「高円寺の阿波踊り」の拠点にもなり、地域に根ざした文化事業を展開している素晴らしいシアターだ。

 その劇場で毎年12月になると「ピアノと物語」という魅力的な企画が公演されている。一つはショパンのお話・ピアノ作品の演奏が組み合わされた朗読劇「ジョルジュ」。もう一つはガーシュインのお話し・ピアノによる同種の「アメリカン・ラプソディ」だ。作=斎藤 憐、演出=佐藤 信。

 作曲家の物語の展開に合わせて作品が演奏される。演劇のステージと音楽会を一晩同時に舞台に乗せた企画だ。それも超一流のピアニストが演奏し、実力派俳優が演じるのだから、凄まじいステージになっている。

 前年はガーシュイン役のピアニスト「佐藤允彦」氏の演奏と共にタイムマシンに乗ったので、今回は「関口昌平」氏のショパンを楽しんだ。氏は第15回ショパン国際ピアノコンクール入賞者で、凄まじいショパン芸術を表現していた。豪快な骨太い音楽づくりと繊細な響きや歌は、満席の観客を感動の渦に巻き込んでいった。沢山の人びとのショパン芸術を聴いてきた私だが、芸術をも越えた心の芯を揺さぶられた氏の演奏に、言葉にならない深い感動を覚えた。

 ジョルジュ役の竹下景子、ミッシュル役の植本純米の俳優諸氏も凄い。

 毎年「第九」のように楽しみにしている人びとが増えて来たようだ。この企画も地域に根付くように思った。飛行機に乗って来て楽しんでみたいひとでも、納得の二時間半に心から震えるはずだ。

アマチュア音楽団体

 クラシック音楽界全体にもいえるが、音楽団体の環境も、技術・実力など数年前と随分変わって来ている。ここではアマチュア音楽団体に限って話すが、10年前と、いや3年前とも変わって来ている。「昔はこの団体はヘタだった」という評は一気に偏見に変わってしまう。指導者も勉強しているし、プロのトレーナーの参加もあって、またそれらの環境を整える資金も集める努力があると、見間違えるほどの成果を上げる団体になっていたりする。

 私は可能な限り毎年全国何処にでも出かけて行って聴くことにしている。噂や他の人の耳目を信用するのではなく、常に進化する団体の表現は、自分の耳で確認するのが一番だからだ。それは財団の助成金審査などでの判断には必要なことでもあるのだ。団体の現状を知らないで「いいと思うよ」って無責任だと思うからだ。

 11月末、ハーモニカ・アンサンブルを聞きに佐賀県まで行った。
 実は、私はハーモニカのアンサンブルは学校で子どもたちが吹く音楽以外知らなかったのだ。いま生まれている音楽を、私の耳でも評価させていただきたかったからだ・・・ 低音から高音まで生かされた楽器群が、編曲の腕で対旋律も豊かに、オシャレな表現をされていた。もちろん発展途上で、アンサンブルにはまだまだ新しい表現の可能性が残されているようだが、高齢者まで楽しんでいる音楽を聴くと未来が明るく輝いてくるようだった。

ジュニア・オーケストラ

 半世紀前には考えられなかったステージが全国で展開している。小中高生を中心としたオーケストラが各地で育っていて、その成果が評価され始めていることだ。全国のそれらの団体の多くを私は拝聴して来ている。

 四半世紀前でも、オーケストラに準じた音楽団体が生まれていたが、まだ微笑ましいアマチュア団体というレヴェルだったように思われる。そこから育った子どもが世界を闊歩する実績になった人もいたが、そこで習得した技術のクセがその後の才能を閉ざしてしまったこともあったようだ。

 今は違う。プロの、しかも一流オーケストラの主席奏者の指導チームが直接子どもを指導している団体が増えた。ママごとから発展した大人と同じような音楽のコピーがステージに拡がっている。そこに賞賛はあっても文句は無い。それはステージの披露を踏襲した成果の表れだが、演奏も出来ない子どもとの共有に向かう手だても残しておかなければいけないような気がしている。鹿鳴館の時代ではないのだから。しかし、指導者にそのヴィジョンがないので、なかなか新たな音楽の共有が、技術を持たない人びとと出来ないでいる。 SDGsの時代、その手だてはすでに学校や社会でも実績が積まれていて、これからの半世紀に楽しみが拡がって行くように思われる。演奏指導者はそこが今後の課題となっていくように思われる。

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