Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

月: 2022年10月

イントロ勝負

 「イントロ当てクイズ」という音楽番組のコーナーがあった。数秒聞かせて回答者がタイトルを当てる企画だ。よく当てるマニアがいてびっくりしたことがあった。タイトルも大切だが、イントロは作曲者や他との差異性が出て、作品の生命線にもなっている。

 作曲家がゲストで議論に加わる企画など良くある。自己紹介でも、議題の扉での意見でも「爆弾発言」をする人が結構いる。イントロが大切なようだ。良く聞くと、中身は大したことではなくても、その後は普通の意見になっても、冒頭部の切り込みが面白い。作品を書くことと同じような人もいる。

 名曲の冒頭は、必ず爆弾導入かというとそうではないが、しかし静かに始まっても音楽構成(表現)は爆弾発言のような展開に広がっていく。

糸電話

 紙コップの底に糸を付け、ピンと張った二つのコップ間で会話をし合うと数メーター離れた人どうしが会話を楽しめる・・・誰もが子どもの頃、一回は経験した科学的なあそびだ。

 柔道で(相撲でもいい)、相手と組むと同じ現象を味わう。つまり相手の腰の動きが組んだ手から伝わってくるからだ。だから相手の動きが分かるから、それに対応すれば良さそうに思えるが、勝負や腰の動きは分かったから対応できるほど簡単な話ではない。一瞬で力の関係は変わり、勝負は決まる。ただその動きの応用を他に出来るかどうかで面白くなることもあるようだ。

 人と人との交流は、慣れると糸電話と原理は同じように見える。つまり組手に至らなくても、聞こえてしまうことがあるようだ。心の瞬時の動きは糸電話で話しているくらい伝わっていることもある。人はそこにいるだけで、実は糸電話で話しているのと同じ現象にあっている。

七つの机

 七面六臂という言葉がある。作曲の活躍でも言える話だ。とにかく、ドラマの付帯音楽を同時に数本、発表から出版に向けた合唱作品が数本同時に、現代音楽の器楽曲、オーケストラ作品、ミュージカルなど、続々と発表していた作曲家がいた。

 これも一つの才能だ。「引き出し」が幾つもあって、注文やジャンルに合わせて多量に発表し続けることができる・・・同じ机で書いていたら混乱する話を「七つの机」と評して賛辞の意で雑誌に書いた。

 ある時電話のベルが鳴った。当の作曲家からだった。「オマエ、何をデタラメなことを書くンだ」と、エライ剣幕だった。ところが悪気がない話なので「何が?どうして?」と怒鳴り声と噛み合わない話で時間が過ぎた。ケロッとした返答に愛想がついた声を出して電話は切れた。きっと机など七つもなく、それが嘘に思え、チャカされたと思ったのかもしれない。それくらい文章は読み手によって変わってしまうようで怖いと思った。

 その昔、劇版(ドラマの劇音楽)で、氏の書いた音楽に注文をつけたことがあった。これも氏の音楽に関心があったことと、意見を言うことによるコミュニケーションの意味があったが、その後何回も面白可笑しく公の場で宣伝されてしまった。具申というものは然程難しいものだと思った。

作物ドロボー

 実りの秋だ。農作物・果物、漁業の養殖から遠洋漁業の冷凍品まで、様ざまな生産物の取り入れが始まったが、いつの時代も、どの地域でも、その丹精込めた成果物を盗むヤツがいる。最近では牛や豚など、大型動物の盗人までいる。

 盗むヤツの神経は分からない。しかし盗まれた人びとの悔しさと苦渋だけは分かる。私も子どもの頃から何度も経験した。

 一回目は穀物を盗まれた。獲れた日の夜にベランダに置いてあったものを全部盗まれた。その後警報ブザーを付けて穀物を保管したが、鳴ったことはなかった。

 朝、鶏が鳴かない。鶏舎に行ってみると一羽もいなかった。一晩で全部盗んだヤツがいた。随分経ってから若い男が捕まって、現場検証に来たが、何百羽も盗まれたたショックは大きく、父は養鶏を辞めてしまった。我が家に犬はいたが一回も吠えなかった。

 栗やスイカも被害にあった。子どもがイタズラで一個盗むのとは違う。毎日消毒し、枝を剪定し、肥料をやっては、熟成を待つ日々の最後に盗まれる・・・

悔しさは筆舌に尽くしがたい。子ども時代のこの感覚は絶対に抜けないでいる。

学校と文化会館

 学校は教育の場だから「教育プログラムを持っている」という言葉は相応しくない。一方、文化施設は教育機関ではないから、その言葉は越権行為になることもある。当然次世代の育成を考えてだが、大きな違いがある。

 学校は「教育」としてカリキュラムが組まれている。だから手順や教材も決められている。一方文化施設は学校でないから、参加者を教育として指導することはない。多くの場合は「サーヴィス・プログラム」である。一回つまらなかったら来なくなるから、面白く、可笑しく、楽しく遊ぶスペースになっている。そこに成果を求めるというよりは、音楽が好きになってくれた、文化会館のステージ企画に来てくれた、というポイントが優先される。

 学校と社会が連動して、文化芸術が教育というニオイから外れて、連続する活動から質が高くなっていく、というプログラムはなかなかできないでいる。

そこに学校と社会との垣根を超えて文化芸術が深く理解・応用ができればいいのだが、様ざまな価値観や生活感を持っているだけに、その活動に筋が入った連続性は望めないでいる。

 簡単な話し、社会の芸術プログラムは、教育・メディア・音楽・(時には)子どもの専門家がブレーンとなって挑戦し続ける必要があるのだが、なかなかそこに到達していない。これからの時代に自然と組み込まれていくだろうし、私はそれを期待している。

子どもの企画 ②

 邦楽器のアンサンブルと、ミュージカル、物語が加わったステージを時々拝見することがあった。企画・制作・演出に、出演者の誰もが「子どものために」一生懸命な成果を披露している。

 その大人たちだって子ども時代があったはずだから、子どもが何を理解して、楽しみにするかは承知のはずだ。

 ところがステージをつくる大人たちは、子ども時代を、子どもの感性を忘れたような、自分たちが信じる「優れた芸術を提供」していると思われる上から目線のプログラムになっていることが多く、今更ながら驚かされてしまう。

 邦楽の場合、どこまでもお師匠さんと弟子であって、音楽を楽しむ友だちではないのが不思議だ。そして「いいことをしている」という自負心が残るから、この種のプログラムは半世紀も進歩がない。

 方楽器の演奏に合わせてダンスとミュージカルの歌声やセリフなど、異種格闘技のようなステージが悪いのではない。いいものを集めたらいいものになるという安易な制作が問題なのだ。こどもがふくらませる世界と遊離していることへのチェックがないことが問題なのだ。そしてこの感覚はまだまだ続いていく。

子どもの企画 ①

 音楽会場で子どもの音楽企画を私が鑑賞する時には、必ず見聞する位置がある。招待席のような正面ではない。前の方の両サイドか、二階以上の席でも(あれば)サイドの席だ。どちらかというと安い席かもしれない。横から後方の席が無理なく見渡せる席がいい。理由は子どもの反応や顔が見えるからだ。

 演奏会や演目によっては、子供が身じろぎもしないで、まるで魂を奪われたように見聞きている演奏会もある。バレエなどでも、友だちが出ていたりすると、身近に感じて楽しんでいるようにもなる。楽しいと、またウケたりすると、ワッと湧き上がり、頭が左右に動く。隣に座っている親の顔や、他の仲間(子どもたち)の反応も気になるが、何よりもステージと一帯になっているからだ。

 いかに子どもの企画だといっても、飽きるとすぐに頭がグラグラ揺れ動くようになる。落ち着かない仕草が出ると、ステージとの接点は希薄になる。必ず親がお行儀を理由に説得する光景が出てくるからすぐに分かる。

偉そうな声

 誰の声でも千変万化だ。環境や感情に溶け込んで、誰もが役者になれるのだ。

 エラソ~な声を出す人がいる。必ずピッチが低くなっている。押し殺した声にも思えるが、エラソ~、エラソ~と首の後ろの筋肉を硬めにして話している時がそれだ。ピッチを高くして威張ったら「喜劇」の場になる。女性でも低くなる。女性大臣が偉そうにしゃべる時は、必ずピッチが低くなっている。感情の起伏がある時は次第に高くなり、快楽の絶頂時はA(ドレミのラ)の音近辺で、それ以上の高さは悲鳴になる。

 疑っている声、ウソをついている声、敬虔な思いで話す時、怒りに震えている時、緊張感がまるでない時、説教する時、悲しみの時、人をバカにしている時、感動して出す声・・・声だけ聞いていても、人々の心の動きはしっかり聞き取れる。いや、そのくらい日常的に百面相ならぬ、百面声を人々びとに発している。誰もが「名優」だと言われる所以である。

催眠声質

 公的な演奏会のステージに、私は実演者として何回か立ったことがあった。  乱数表の数字を淡々と朗読する役目だった。
 終演後に外国人を含む音楽や声の専門家数名から、私の声について批評をいただいた。「声に催眠効果がある」という印象を持ったそうだ。

 それを聞いて私は多くの人びとを眠らせるコツを覚えた。滑舌が良くても読経のように淡々と読み、時々抑揚を加える。すると多くの人びとは目をこすり、眠らないような努力をし始める。疲れているひとは頭がガクッと落ちる・・・
 催眠療法や、マインドコントロールに近いかもしれないが、そこから先は工夫しなかった。何だか話すと眠られてしまうのも残念だったからだ。しかしこれは私だけの特性ではなさそうだ。心地良いビートと音程に多少の抑揚を付けて淡々と話し続けると多くの人びとを眠りの世界に誘うことができるようだ。
 反対に眠らせないのは、そういう音や響きを作らないことだが、一番は話の内容によるところであるというのは当然だ。