Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

投稿者: Katsuhiro Tsubonou (Page 1 of 12)

メタバースの音楽

 50年ほど前、拙作のなかに図形楽譜の作品が幾つかあった。
 本 Web サイトの表紙の一部なっているが、ヴァイオリン・ソロの「スカイ・プロズム」と、ハープのための「リンの詩(うた)」がその例だ。

 「スカイ・プリズム」は、その名の通りプリズムを回すことによりまれる音たちを、演奏家が即興で感じ取り、表現していく音楽だ。
 プリズムだから三角錐の中に音たちが、ちょうど宇宙の星のように浮かんでいて、それが三角の面が回ることによって、星たちの存在が変化していく仕組みになっている。
 三角だから一つの時間軸をドレミのド、もう一つを5度上のソ、最後の軸を更に5度上のレに設定すると、ドとソの面から見た星たちが浮かんでくる。しかし次の面、ソとレの面から見ると、同じ音たちが違う音の場所にいることになる。またドとオクターブ上のレの面を見ると、また代わったポジッションの音の存在に気がつく。「仮想空間」の音との交流がそこにはある。音楽の三次元の創造に於ける表現だったが、半世紀たっても誰からも理解してもらっていない。埋没したママか、眠ったママか、とにかく拙作の一番の自信作だが、なんの評価もされないママ時が過ぎて行った。

 子どもの「音楽づくり」など最適だと思うのだが、この仕組みを理解していただくことは、なかなか難しいようだ。
 なお、文中の拙作が二曲入った CD はフォンテックから発売されている。
 <FOCD2570>

名医

 どの町のどんな職業でも、天使の様な輝きを持っているひとと、信じられないほど酷いひとがいる。
 ある町の医師会と音楽のつながりでお付き合いさせていただいたことがあったが、天使と尊敬できるひとと、問題があるひとがいて驚いたことがあった。
その酷いひとに当たらないようにするには、口コミも参考にした情報量だろうが、情報が常に自分にとって正しいとは限らないから厄介な問題だ。
 幸い私は優れた先生にばかりお逢いしてきたようだ。

 歯科医の先生は、かなり酷い状態の歯でも最後までその歯を生かそうと手立てを講じてくれていた。だから歯で困っている仲間を紹介すると、みな感動していた。
 私の父母の主治医は、地域でも聞こえた名医だ。医院での診察が終わると在宅医療で飛び回り、夜中の急患対応までされている。だから緊急時に車を運転できないといけないから酒は飲まない習慣になっている。誰もが出来そうだが、行列のできる医師はそうはいない。

日本の作曲家偉人伝

 日本の現代音楽に関する名曲の話を綴ってきた。曲をつくる人、つまり作曲家に話を向けたら、これまた数十回の連載になってしまう。そのくらい日本には偉人が多いのだ。

 最近の話の一部をしよう。タレントとしての実績に目を向けがちだが、例えば、芥川也寸志・黛 敏郎(敬称略、各故人)の実力は常人の努力では届かない世界と交信した結果を私たちに聴かせてくれているようだ。つまり音楽・ミューズが微笑む源泉を私たちに振舞ってくれているようなのだ。
 口の悪い人は、音で感じる世界を見て書いている、と評価する人もいる。聞こえてくる音と同化して書いていないところが問題かもしれない、というが・・・
 しかしどう評論しようと、作曲年代の世界の音楽動向を伺ったとしても、勉強すれば表現できるという範疇を超えているように思える。
  TYや映画、舞台の音楽外の作品そのものを聴かれると、誰もが何か背筋がゾ〜とする感動をえるかもしれない。

現代音楽の名曲新釈 ②

 故・矢代先生とは東京文化会館の階段でお逢いしたのが強烈な印象を持っていた・・・「あなたの音楽を私は支持します」と真剣な顔で仰ってくださったが、直ぐ後で亡くなられてしまった。
 反対に、雪の降る有楽町の街角で私と言い争いをした作曲家の先生がおられた。「キミ、音楽は結局メロディーだよ」という意見に、私は一面的なコンセプトに反対意見の喧嘩を売った論争だった。
 コンテンポラリーの発想では、メロディーそのものも従来とは違う切り口を若い人びとは求めていたからだ。
 でもその人「松村禎三」は名曲を数多く残しているが、「ピアノ協奏曲」(1番と2番がある)のドローンには参ってしまった。ドローン<低音の持続音>の上ではピアノだけでなく、オケの様々な楽器がつむぎ合って歌を広げていく。
これまた誰にでも分かりやすいし、民族音楽にもあるように音楽の基を成しているし、既に教材化されているほどのスタンダードな構造なのだ。これは子どもにも理解できるし、この曲を参考に「音楽づくり」も可能なのだ。凄いと思った。
 なかなか再演されることが少ないが、でもこの曲は何時迄も人びとに松村先生の信じるメロディーの基が紡ぎ出されていくように思った。

現代音楽の名曲新釈 ①

 20世紀後半、日本の現代音楽作品はかつてないほどの名作が生まれていた。日本の天才作曲家諸氏が珠玉の名作を生み出した時代だといえる。
 海外で高評価された作曲家作品は、私たちも良く知っている。歴史に残る名作の数々に圧倒されている。一方、海外のオーケストラ公演でも紹介されたが、あまり評価されていない作品も多かった。ヨーロッパの伝統的な様式に則った作品など、欧米の専門家諸氏から失笑されたりした。

 矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」の第二楽章についてお話しする。ドレミのドの音のリズムパターン(オスティナート)が繰り返されるなか、弦が緩やかな歌を浮かび上がらせていく。子どもの頃に眠っていてウナされた響が元になっているそうだ。エピソードはともかく、誰にでも分かりやすく、イメージも人それぞれに掴みやすい。その分かりやすさというのが大きな魅力だ。それがあると、第一楽章や第二楽章も理解されやすくなる。子どもなど、こんなエッセンスから自分の世界に矢代作品を迎え入れてしまうような気がする。

 日本のあるオーケストラによる海外公演では、散々だったようだ。国際的に活躍していた共演のピアニストには「何でこんな曲に入れあげた演奏をするんだ」とまで言われたそうだ。
 でも時間が経つと、多数の聴衆がイメージを膨らませて、作品の優れた世界を敬愛して行くような気がしている。

コラボ・コンサートの開催

坪能克裕音楽監督の「ワールド コラボレーション コンサートIII」が開催されます。
 今回は五カ国の演奏家・作曲家が自国の音楽や日本と関連するオリジナル作品を持ち寄っての開催です。

 音楽による国際交流は、昔から多種多様なイベントが各地で行われていました。これまでのプログラムは、各国の名作を演奏・歌い合ったり、一緒に踊ったりすることが多かったようです。
 この頃は一歩踏み込んで、参加国の伝統音楽やオリジナル作品の交換も見られるようになりました。
 この会では、さらに踏み込んで、交流し合う国の音楽の要素などから新しい音楽を生み出して次世代に残して行こう、というクリエイティブ コラボレーションが特徴です。
 
 2023年1月に紀尾井ホールで、3月に東京タワー展望台333特設スタジオで、それぞれの会場に合わせたプログラムです。もちろん国外にも動画は公開されます。
 お楽しみください。

歌のひろば②

 一握りの声楽家以外、1時間ものステージを歌い続けて聴衆を魅了できる人はいない。一般的な声楽家のステージで、前半・後半と分け、途中休憩を挟んで2時間のステージは暴挙だ。本人の音楽力や体力も大変だが、聴き手の辛抱は限界を超えているからだ。
 せっかく切符を買ってホールにいらしていただいたのだから30分では高すぎる、と思われることもあるようだが、結婚式など全ての祝辞に共通する話だが短いに限るのだ。

 広場で、自分も歌うが、参加者と一体になって歌い合うことや、参加者の歌を聴いて楽しむことが加わっていれば素晴らしいのだが、それは無理な話のようだ。
 聴衆は聴く役だと思っているし、歌い手は自分の世界を披瀝して拍手をいただくモノだという概念から抜け出せないからだ。
 でも歌い手の元に人びとが集まり、一緒に歌い出したくなる環境もあり、みんな楽しく一体化できる広場があることが素晴らしい、と思っていたがなかなか賛同する人が少なかった。これからそんな広場が当たり前になっていくと思っているが・・・

歌のひろば①

 リサイタルには固定イメージがある。歌のリサイタルに絞って話そう。
 誰もが想像するリサイタルは、二千人のコンサートホールは別格として、数百人の座席数のホールで、男性は燕尾服、女性は結婚式のようなロングドレスで、90分前後のレパートリーを歌う会だろう。
 夢のようなひと時を共有できるスペース・・・と思っているのはステージで歌う人。義理と人情で成り立っているコンサートがほとんどだ。30分以内なら我慢できるところだが、人の迷惑を考えないで、自分の価値観を多くの人びとに押し付けたい人には、なかなかそのヘンを気付くことが少ない。

 今はステージの上で歌いまくり、拍手喝采を糧にすることは、時代錯誤だと言える。勉強の成果を発表するには時代の空気を読んだ方がいい。質のいい情報がメディアから日常的に確保できる時代に、スターの真似をする価値は薄い。

 「ひろば」でいい。サロンや(許可を貰って)ロビーでもいい。持ち運ぶ可能な伴奏楽器か、パソコン音源でもいい。五人でも十人でもいい。自分の歌はオープニングに1曲。後半オハコを1曲。フィナーレに1曲。アンコールがあればもう1曲で十分だ。回数を重ねて「また聴きたい、一緒に歌いたい」人が増えていけば、ステージでの交流もあるだろう。

 その3曲プラス1曲の合間に、参加者と歌うこともできる。主役の歌い手が「聴き手」になることや、同じ歌う仲間になってコミュニケーションをとることが社会活動としてならば大切なのだ。「雲の上の人」になって聴かせるだけがいいわけではない・・・というアイディアを話すと、歌う人は飛びついて賛同する。しかし結果は切符を売って、スポットを浴びて2時間も歌いっぱなしの企画になってしまう。何かヘンだ。

褒められて育つ②

 一時期、放送やレコーディングのスタジオで、自作の劇音楽や他者の編曲作品などのオーケストラ曲を多数指揮していたことがあった。メンバーは在京のオーケストラからの選抜チームで、各楽器の名人が集まっていた。
 一曲に付き、楽譜のチェック用の音出し、テスト録音、そして本番の順だ。録音を確認して、事故がなければそれで OKが出て、次の曲に進んで行く。
 スタジオは室料と楽員の演奏料、技術料だけでも1時間数万円、人数によっては数十万円掛かるから、手際よく高品質でまとめて行かなければならない。

 そんなスタジオ仕事をしていたら、「指揮者になったら?」「在京オケのステージも務まるぞ!」というお褒めの言葉を何回かいただいた。褒めなれたことの少ない人は狂喜乱舞するかもしれないが、これだけは笑って応えなかった。

 指揮者が務まる人は指揮者になるべくして生まれて来ているように思っていた。音楽の様ざまな能力を持っているだけでなく、存在だけで音楽により人をとりこにさせる「華」がある。一緒に音楽をしたいオーラに包まれている・・・凄い力を醸し出してくるのだ。そんな力は私には無い。スタジオでの限られた条件のなかならみんなで創る作業はできるが、多くのファンに囲まれて輝けるのは、宇宙人とも会話できる一握りのひとだけだと思っていた。
 現在、多くの若手指揮者の活躍を見聞していると、惨憺たる有様になっていない自分を褒めてあげたいと思っている。

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