Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

月: 2022年2月

畑 道代

 「菊の会」という日本舞踊の会がある。日本の伝統芸能からオリジナルまで踊りで世界を席巻している団体だ。

 その創立者で舞踊家が故・畑 道代先生だ。非常に優れた踊りの天才だったと言われている。

 その二代目が畑 聡先生で、美事に後を継がれて会も芸術も大きくされている。

 私は道代先生の時代から、音楽や踊りをテーマに良くお話しさせていただく機会を得て、その後私がリーダーになって「言葉による表現」のワークショップなどを会でごいっしょさせていただき師範諸氏とも交流が続きました。

 私は20年ほどの交友でしたが、会は半世紀の歴史を刻んできました。その記念会が私も名前だけだが音楽の監修役としてご一緒させていただくことになりました。

 美しい日本の踊りの舞台をみなさまご紹介させていただきます。

勝手なコーラス・音楽づくり②

 詩でも音楽でも「名作」には秘密がある。その感じ方はひとそれぞれだろうが、自分でもつくってみるとその偉大さが実感できる。リスペクトを抱くことになる。音楽づくりにはそれが一番大切だと思う。

 音楽の仕組みを理解すると「勝手なコーラス」のように、幾らでも勝手なモノ真似から自分たちの世界を堪能出来ることになる。オリジナルな世界とふれ合えるチャンスにもなる。

 ただワークショップリーダーの問題は二つある。一つはリーダーの存在が薄くなればなるほど優れた存在になるから、正に縁の下の力持ちになることだ。同じ目線でつくり合い、参加者が主役になればなるほど、リーダーの実績が表面に出ることは無い。もう一つはそれに伴い、何十回も実施して、参加者と何百曲つくっても、楽譜に残って売れるわけでもないし、業績として評価されることはなかなか無い。つまり儲かる話では無いということだ。しかし私はだから素晴らしい、と思っているのだが・・・

 音楽家のトレーニングは「自分がステージで輝くこと」が大きな目標のひとつだから、みんなの耀きをどう生かすかの折り合いは難しいようだ。

 コーラスだから合唱に興味のある人びとが喜んで参加されるかと思っていたが、「楽譜を忠実に再現」することの大切さを主張するひとが多くて、なかなかデタラメでない即興を生かした音楽の生産に参加されることが無かったのが残念だった。

勝手なコーラス・音楽づくり①

 草野心平の作品に「勝手なコーラス」という詩がある。
 “あ”のカエルや“ぐ”のカエルなどが並んだ19連の詩だ。

 ことばあそびの会の「波瀬満子」が、その19連を様ざまな表情で朗読していた。それを私はレコード録音して、カエルが田んぼから広場に出てそれこそ勝手なコーラスになるように編集したことがあった。

 私はこの詩をテキストにして、子どもたちや一般市民とたくさんの音楽づくりをしてきた。それだけでなく、詩自体も参加者がひとり一連を考えてそこに様ざまな表情をつけて表現することも可能になった・・・“あ”のカエル=あらま、あらま。“い”のカエル=いいね、いいね。“う”のかえる=うらやまし、うらやまし・・・など。5~6名のチームで、ひとり一つの言葉の選択を考え合って、それを「繰り返して」対話することも面白い。

 テーマをカエルから「花」にしても面白い・・・“さ”の花=さくら、さくら。“き”の花=きく、きく、など。一面が花畑に変わるだろう。音楽だけでなく、国語の授業要素も、ひとの動きと合わせると身体表現の時間とも共有することになる。

 参加者の名前(愛称など)を呼び合ってもいい。都市の名前でも良さそうだが、生命体の方が表情も付けやすいだろう。

 ひとり一言の鳴き声や花びらの表現は喜怒哀楽によりコーラスでの感情表現は大きく変わる。そして参加者通しがどう「対話」するかによって、全体の構造が浮かび上がることになるので、そのルールは決めた方がいい。最初から最後まで勝手に自己主張するだけでなく、仲間の表現を聴き合うことにより、全体の表現や密度が濃くなるだろう。演奏時間やそれに伴う個々人の動きなどのルールも全部即興でなく、ひそひそ話での対話から、朗々と抑揚を付けて歌い合う場など「応用・変化」を用意して全体にメリハリを付けると面白くなる。

 この種の音の表現を音楽と感じないひともいる。自然のなかから聞こえてくる音たちを音楽として感じる人たちもいる。

 一つの音を繰り返し表現し合い、個々の人びと通しも全体も聴き合いながら音の世界を作り合うその時こそ「音楽が誕生している」といえる。

 実際夕方田んぼが近いお寺の境内で演奏し始めたら、田んぼのカエルが刺激を受けて鳴き始めたこともあったようだ。

アニメ・ソング

 アニメ・ソングの制作といえば、音楽産業の世界で日本コロムビア・レコードの木村英俊プロデューサー(同社取締役・制作本部長)を知らないひとはいなかった。音楽制作家の天才の一人だったろう。それだけにアクが強く、敵も多かったが、ずば抜けた仕事ぶりでアニメ・ソングを日本の文化として一時代を築いて行った功績には凄いものがあった。

 「アニメ・ソング制作に魅せられて」(有)ジーベック音楽出版社刊、が出版されている。アニメ・ソングの記録が核になっているが、ディズニー映画や手塚治虫の世界を含め、壮大なアニメの歴史が描かれている。これは日本の文化財だ。 TVや映画、音楽の知られざる制作記録がここにある。著者が長年心血を注いだ魂の文言が読むひとに伝わってくる。もちろん客観的な記述ではあるが、制作者の入れ込みは自分史にも近くなっている。単価が高いからなかなか売れないようだが、アニメが好きなひとが手にして、宝物であることを実感できる編集だったら、もっと多くの人びとに拡がったかも知れないと私は思った。

 約十年私は木村氏の傍でプロデュースを学んでいた。そうでなければ作曲家の団体が国際大会を私のプロデュースで成功に導くことや、全国の公立文化施設の文化事業に助言などで参加できる手だては無かったと思っている。

 2019年7月16日、少ない家族に見守られ亡くなった。大きな時代のうねりがアニメ・ソングを賛歌として天国に連れて行ったような気がした。

シューベルトのピアノ・コンチェルト

 シューベルトにピアノ・コンチェルトは無い。ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調のピアノとオーケストラのための演奏用バージョンのことで、この度「吉松 隆」氏の編曲で初演された。

 シューベルトの晩年の最後の作品で、ピアノの原曲だけでも名曲の価値はある。それにオーケストラが加わると、蛇足に思えないか心配でもあり興味津々で聴きに行った。

 白黒の写真がフッと色彩を帯びるように、ピアノがオーケストラの響きの中に溶け込むように空間を包んでいく。余計な手を書き加えていない。作品に畏敬の念が込められた祈りがピアノを包んでいく。

 通常の二管に弦楽とティンパニが加わる編成だが、そこにグロッケンシュピールが加えられていた。普通ではありえない編入だが、実に効果的な世界を生み出していた。この後に続くロマン派の世界を呼び込むようでもあり、チェレスタの活躍を予言するようなスペースを感じさせていた。編曲したシンフォニー作家の吉松氏の美事な宇宙が拡げられて行った。

 テーマを基にしたピアノとオーケストラの歌い合いも自然で心地よい世界への誘いを感じたが、元々ピアノとオーケストラの協奏を書いた作品では無いために、オーケストラの活躍は控えめになってしまっていた。しかし、ラベルが「展覧会の絵」を書いたような域にもあるようで、これは色々なピアニストやオーケストラが採り上げていただくと楽しいと思った。

 田部恭子のピアノは素晴らしかった。藤岡幸夫指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が熱演。2022年1月29日・ティアラこうとう 大ホール

音楽大学・音楽専門学校

 「四年間、好きな音楽三昧で暮らして学士の資格。何が問題だ」と或る音大の学部長の言葉に、以前私はムッとしたことがあった。出口(卒業)で社会とのつながりが希薄なため、学んだ音楽が生かされる領域が少ないのに、学生時代が満足ならそれでいい、とは無責任だと思っていたからだ。

 舞台芸術のトップを目指す・・・千人に1名のエリートを育てることも必要だろうが、同じ価値観から外れた人びとの救済は考えていない。教師にでもなったら(教員の資格が取れる制度があればいいが)、町の音楽教室の指導者や、ブラスバンドの指導者になればいい、とうそぶく先生もいたが、音楽家が社会で果たす役割は多いはずだ、と私は思ってきたから育成のシステムからして問題だと考えて来た。

 親と毎日のようにケンカしている、という学生が何名かいた。「高い学費を払っているのだから○○だ」と責められるのだそうだ。一方親は「卒業したら何の仕事に就けるのか」「就職をお世話してくれるのか」と大学や学校側に質問してくる。

 「ひとそれぞれ才能にもよりますし・・・」「文学部を出ても、作家や文学の専門家になるわけではないし、サラリーマンになるひともいる」と他人事のような返事が返ってきた。

 もう40年も前から私は音楽雑誌に音楽大学の未来とその時の役割を描いてきた。舞台に立つだけでないコミュニティー・ミュージックで活躍出来る環境も手だてもみんなでつくっていかなければならないという話しだ。最近それを考える学科が出来はじめてきた。でも教える側が未経験な領域だけに成果はこれからになる。それを待たずに音楽を専門とする教育機関が弱ってしまうかもしれないと思っている。

音楽と落語

 音楽とコラボレーションする企画は、今始まったわけではない。 ダンスやドラマでも自然なコラボレーションになっている。

 落語とコラボレーションする企画がある。最初は異質なようで戸惑った人もいただろう。落語はひとりで表現する語りの世界で、そこに音も伴っているかからだ。音楽も芸人の仕草で感じる、と言われても不思議でない総合芸術でもある。

 そこにジャズとのセッションや打楽器や室内楽の人びとが加わると舞台芸術が変わって見えてくる。

 即興で落語と対峙するひともいれば、演目に会わせて五線紙に書き込んで合わせて表現するひとたちもいる。書いて事前に用意してあると、それはドラマの「劇判」と同じで、背景や感情をデフォルメすることになる。何の不自然もスリルもないコラボレーションだ。

 即興で対応するひとのなかには、お互いに息を合わせて、或いは様子を見ながら合わせていくこともある。みんな優しい思いやりがあっていいのだろう。

 劇判になるなら音楽をステージで一緒に演ずる必要は無いだろう。そして即興なら、話芸に切り込んで対話できる鋭さがあった方が面白いだろう。同じ舞台芸術でも「異種格闘伎」は、あそびとは違う創造と破壊があっていい。様子を見ながらのごまかしはお互いの芸術が停滞してしまうだろう、と私は思ってきた。ところが私の考えが吹き飛ぶように、お客さんは喜んで満足して帰る人が多いようだ。社会には新たな領域の「音楽落語」が浸透しているのかもしれない。