Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 百紀夜稿 / HYAKKIYAKO

懸賞論文から

 「坪能克裕とその周辺のこと」という文章が「音楽芸術」に載った。76年に音楽之友社・創立35周記念で、管弦楽曲と論文を公募し、その論文部門の一位になったもので。当時の都立目黒高校の生徒が応募した作品だった。

 70年代前半、前衛音楽の嵐が日本の作曲界にも噴いていた。その頃、私は音大生から卒業したての時で、創造と破壊の狭間で暴れていた。怖いものなど無かった若造の時代で、その狭間を鋭く突いていた。だから誉められた内容ではなく、いま展開されている現代音楽に問題が無いのかどうか、坪能たちの若い作曲家はこれでいいのか、疑問を呈していた。高校生としては破格の分析と論調に、今でも圧倒される文章だった。審査員が推挙するだけの説得力があった。
 私はあるがママ受け止めていたが、日本の音楽界では拙作の内容とは別に、エラく私が(悪役で)有名になってしまった感があった。

 その後の「坪能克裕とその周辺がどうなったか」については、誰も語っていない。私が正当化する問題でもないから、多くの人びとは現代音楽での活動は知られないママだ。「領域の拡大」を展開して、現代音楽が一般のひとや子どもにも、学校や文化施設から社会の様ざまな団体とも結びつき拡がっていく構造を作り展開させたが、自慢する内容では無いと思っていた。

 その文章から40年経ち、日本現代音楽協会(当時の会長が坪能)で新年会が開催された。祝辞を国立音楽大学の事務長さんから頂いた。そこでは70年代前半の私の狼藉を知っていて「アレで音楽だと思っていたのか」問われる内容に、私は顔から火を吹いたのを覚えた。優しい祝辞だったが、強烈で過去の犯罪は消えないのだと思った。

顔音痴②

 顔音痴、顔認識の甘い物語を上げる。それは「変相」ものだ。七つの顔を持つ男や七変化、二十面相などの映画が昔からあった。
 ひとは同じ顔でも、帽子を被る、髭を生やす(付ける)、髪型を変える、覆面をする、などの変相で、誰からも見破られないと私は思っていた。そう、メガネをかけただけでスーパーマンと気が付かなくなるのだと信じていた。町人でも奉行でも入れ墨を見せるまで悟られないし、声や体格が同じでも顔のメイクで誰からも判られないのだと思っていた。

 子どもの頃から私は良く人を違えていた。何から何まで Aさんに似ていた。自信を持ってポンと肩を叩いたら、全然知らないひとだった。
 ある時、電車に乗っていたら昔の高校の B先生に会った気がして・・・何度も確認して声を掛けたが、違っていた。そのように間違える方が多かったので、以後相手が私に気が付き、声を掛けてくれるまで黙っていることにした。

 コンプレックスは他人に言えないから悩むのであって、みんなに言える段階のものはコンプレックスとは言わないだろう。顔認識の努力は人知れずしてきたが、どうしても治らなかった。髪型やメイクを変えたようなレベルから顔の判別が不能となるから、私にとっては大変なバトルだった。

 バッタリ友人・知人・後輩(学生)に逢う。すると誰だか?数秒思い出すのに時間がかかる。この一秒前後の「間」であっても“信頼”が失われる・・・「私を忘れたの?」「偉そうな態度」「アンタ何様」と相手は冷たい目に変わる。そしてその場は何とか繕っても、信頼が無くなり、友だちを失った瞬間を何度も経験することになった。半世紀ぶりに会った従姉妹も思い出せず「どちら様ですか?」と聞いてしまった。
 友人だけでなく、混雑した場所でワイフと待ち合わせた。「さっきから顔を合わせても行ったり来たりして私を見つけられない。どうなっているの?」と叱られたことが度々あった。
 前述したが、顔認識はコミュニケーションの基だ。第一歩が欠落しているひとに文化芸術の才能はない、と言われればその通りだったかも知れない。秘密だったが重大な欠陥で、努力の甲斐もなくその悩みは消えないママ歳をとってしまった。

顔音痴①

 ひとは様ざまな音痴を知っている。歌うと下手なひともいるが、脳に問題がある以外、音痴だと胸を張ったり悩んだりする必要は無いそうだ。
 方向音痴というひともいる。痴呆症では無いので、自宅には帰って来られるようだが、案内図を見ても何度ひとから道を教わっても、方向が判断出来ず辿り着かない人もいる。

 「顔音痴」というのがある。努力しても人びとの顔の判断が出来難いことだ。音符の記憶に特技があるためか、音楽家でひとの顔判断に自信のないひとは結構いる。
 顔認識はコミュニケーションの基であり、人びとはそこから社会で生かされることになっている。だからそこが欠落していると、才能も何もあったものではないのだ。
 
 学校の先生は子どもの顔をいち早く覚える。卒業後も正確に顔を記憶している。顔と名前を覚えたら、性格が分かり、得意な才能も発見し生かせるようになる。子どもからしたら、顔や名前を覚えてくれない、ということは悲劇に等しいことだ。
 顔判断が鋭いことは、警察官もそうだし、接客商売には欠かせない才能だ。何度顔を合わせても初めて会ったような素振りでは、人びととの信頼関係は生まれない。

 (失礼ながら)大した才能が無いと思われたひとでも、顔認識が長けているとコミュニケーションが拡がり、仲間づくりから才能が生かされてくることが多かった。だから顔認識が得意であることは、もうその道の天才を授かっているようなものなのだ。

音楽の理解

 ジャンルにもよるし、好き嫌いはあるものの、ひとはいい音楽(や歌)を嗅ぎ分ける能力を鋭く持っている。シャウトしている言葉から理解しているだけではない。その作品の持つ全てを理解しているようだ。だから過去のヒット曲やヒット歌手には凄い力がある。
 クラシック音楽や現代音楽でも、ひとの鼻(耳)は鋭く嗅ぎ分けている。ただ理解するための手続きが面倒なだけだ。その基はポップスと同じだとは言わない。しかし「分かる」ということは理屈を超えて人々を魅了させるから凄いと思っている。

 音楽の「理解」はひと様々だし、勉強の段階でもレヴェルに応じても異なってくるようだ。ベートーヴェンの作品も、何も知らないで聴いた時と、音楽の勉強したての頃と、専門的に指導を受けた頃と、熟年になって再度勉強した頃と、歳をとった今とでは、同じ作品でも違った感動がある。名曲という世界遺産にはそれだけの力があるということだ。
 私の指揮の先生は、弟子が理解したグレードに合わせて指導して下さっていた。だからこれ以上の勉強は出来ない、というラインまで努力して見て貰うと、猛烈な世界に誘ってくれていた。それだけ一つの音楽でも奥が深いということだろう。

 オリジナルは、情報の渦から一つ触れるものがあるかどうかだと思っている。それで「あれも知っている。こんなことは他の人は知らない」という知識の持ち主もいる。それを超えて新しい価値を生み出すのは大変なことだ。
 現代音楽の仕組みの様々な手を知っていると、作り方から、何を言いたいか、どんな手順で盛り上げていきたいか聴いただけでネタバレすること良くある。何だ、意外にツマンナイ音楽だな、と思ってしまう作品も多い。それもこれもたくさん聴いていると誰にでも分かることだろうし、人びとの鼻や耳の怖さが身に染みて来ているのも私は実感することが多い。

ビブラート

 この頃の若い声楽家には少なくなったが、それでもウワオ〜ワオ〜その辺の音を揺すったビブラートや、チリメン・ビブラートといわれている音を震わすだけの声を出しているひとは今でも少なくない。
 歌・声の作品上の表情や解釈で、指定のピッチより上ずったり、低めに重く音程を取ったりすることやビブラートの種類による変化は良くある。しかしアバウトにその辺の音を揺すればいいわけではない。
 それは生理的に気分が悪くなる音楽表現で、それが私は嫌で随分仲良くなれない声楽家がいたと思っている。

 音楽スタジオで録音して編集してみると、そのいい加減なビブラートは解釈で付けているのではなく雰囲気で付けていた結果が直ぐ分かった。つまり編集ポイントが何回取り直してもどのテークともつながらないからだ。
 私がお仕事をご一緒したスターで女王と呼ばれた歌手は、録音で何度取り直しをされても、全く同じ歌い方をされていたので編集は何の苦もない作業になった。誤解が無いように付け加えるが、彼女のミスで録り直したのではなく、技術的な問題や何かノイズが入ったという、歌の責任外の話しだった。

フラッシュモブ

 音楽がメインのイベントに絞っての話題・・・もう十数年前から町なかで突然音楽の演奏に出逢う機会が生まれた。公共の広場で、大通りで、アーケードで、一人が音を出すと次第に人びとが楽器を持って集まり音楽が始まり、例えばラストは合唱も加わってベートーヴェンの「第九」になる、というイベントだ。

 ここには重要な二つの異なる世界がある。
 一つは、音楽の始原の素晴らしさだ。一人の行為が人びとの共感を呼び、多くの人びとと輪をつくり一体化し、世界を共有する。何と素晴らしいことか。
 もう一つは、「第九」を例にとってもいいが、指揮者が出て来て広場がステージになってしまう「企画」(事業)。結局は演じる側と聴く側を分けて、誰かが音頭をとってまとめたことになる。アンサンブルは聴き合い、息を合わせて表現するものだが、結局はステージの野外版で、意外性や出前のサービスを除くと、二回目からは驚きもなく、広場の人びとはイベント自体の賛否に分かれるかもしれない。

 1970年前後は、前衛音楽の宝庫だったと思われる。偶然性や音楽の限界を問いながら表現していた人びとが多かった・・・70年、私たちの仲間は学生食堂に散らばって座り、時間と共に自分たちで決めたリズムや音程で一つのフレーズを繰り返しながらアンサンブル。そして規定時間を使い果たすと退席する、という音楽を発表した。人数は十人ほどで、楽器は固めの「センベイ」で演奏(かじる)・・・其処彼処で「パリッ」「カキッ」。そのうちに食堂中がバリバリ、ボリボリ、パリパリ。騒音に聞こえた人びとと、センベイの強烈なニオイで、食堂のおばさんたちに追い出されたが、参加者と一部の聴いた人は満足感で満腹になった。

「百姓っぺ」の文化芸術

 「百姓っぺ(ひゃくしょうっぺ)」とさげすまされることが、子どもの頃イヤだった。確かに酪農家のように、牛や鶏から、穀物、野菜と、自給自足に加え生産物を売って生活していた。だから私は子ども時代から農家の手伝いは何でもしていた。土を耕し、タネを蒔き、自然や動植物の畏れや感謝と共に暮らしていた。
 経理の専門家で公務員夫婦が戦後、土も触ったことが無いのに突然原野を開拓して百姓になった。しかし地元の子どもと何としても仲良くなれず、からかわれることが苦痛だった。ホワイトカラーの家族にあこがれていた。

 音楽を突然始めた。それも「つくる」ことを選んだ。その後音楽のプロデュースや文化事業の仕事にも従事させていただいて、みんなでつくることも実行して来た。世界の文化財、一流芸術や優れた人びとの智恵に少しでも触れることは素晴らしいことだと思っているが、基本は自分たちでタネを蒔き、育て、その価値観と他の異なる価値観の交換から全ては始まる、ということではないかと思ってきた。でもその「耕すこと」ってカルチャーの基本ですよね。ということは、私は本格的な百姓をず〜ッと続けてきたということになる。

 ドン百姓、という言葉もある。江戸時代ではないのだ。今ではドンと太鼓で打ち上げて貰えるような最高の褒め言葉のように思えるのだ。故に私は「百姓ッペ」と呼ばれた方が晴れがましく自然なような気がしている。

コミュニケーター

 コミュニケーターとは人びととコミュニケーションをするリーダーのことで、地域の文化施設の文化事業と町の人びととを結びつける役のひとのことを言います。企業の活動ではなく、文化事業の市民リーダーという意味の造語です。

 この原型は96年ごろから越谷サンシティホールで展開された、市民のリーダーによる「歌のおねえさん・おかあさん」の活動にあります。歌うおねえさんではありません。歌い合うことで市民同士がいろいろな時や場所でコミュニケーションを生み出し、人びとや情報の交流が狙いなのです。ですから動く“リサイタル・スペース”ではありません。集う人びとが楽しく歌える環境をつくり、異なる価値観を認めて、ひと時歌い合える「ひろば」を大切にする、という企画なのです。要は歌わせることの方が大切なのです。そしてコミュニケーターとはその名称なのです。これは十年程前に多可町のヴェルディー・ホールの活動で実際に使った言葉です。

 ところが現実には、どんなに説明しても、 実践を体験してもらっても、モデルケースをつくっても、狙いに合ったところを褒めても、全然趣旨が伝わらないことには参りました。自分が輝くことが一番になってしまうのです。集まった人びとを輝かせる手だてが言われても思いつかない、という現実があったようです。
 音楽の師弟の育成は、より高度な技術を身に付け、より広く高いところで、より輝く訓練を受けさせることも大切で、そこから抜け出せない現実があったようです。構造的はそこが問題なのでしょう。歌うことで、いや楽器をもっても参加する人びとが輝くという時代のコミュニケーターが今一番望まれているのだと思われます。

東京音楽コンクール受賞者コンサート

 ‘90年代後半、東京文化会館の館長に作曲家の故・三善 晃先生が就任された。

 市民参加企画や市民文化育成事業が公立文化施設で開花していく時代だった。「ちょっと手伝ってよ」と三善先生に誘われ、次世代育成企画など話し合っていた。その頃から若い演奏家のための国際コンクールを三善先生が提案され、実現へ向けた努力をされていた・・・それから四半世紀が経ち、21年1月11日に同館大ホールで「第18回 東京音楽コンクール 優勝者&最高位入賞者コンサート」が開催された。コンクールが持つ功罪はあるだろう。それは別途語るとして、演奏会の成果と出演者の力量は凄まじいモノがあった。設立時とは隔世の感があった。ピアノ2名、トロンボーン、そしてヴァイオリンがコンチェルトを演奏。出演者が高校生であっても、聴衆を唸らせる世界を提示していたので、凄い世の中になったと私は思った。

 これからもっと実績を積んで、世界を席巻していくことになると思われる出演者たちだが、いまこの若き演奏家が表現する世界を全国の各地域の文化施設でも聴いていただきたいと思った。一握りの有名人も素晴らしいけれど、これからの音楽界が誇る若い演奏家の財産は遜色のないものなので、受賞者の世界を多くの人びとに共有していただきたいと思った。

 全曲オーケストラとのコンチェルトだったが、その演奏も素晴らしかった。角田鋼亮指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団。司会は朝岡 聡。挨拶、場面転換のつなぎ、簡単な曲目解説、短時間に急所をついたスマートな表現は、多分この種の企画を担当されたら日本一だと思うくらいの耀きがあった。