Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 音楽づくり / MAKING-MUSIC (Page 1 of 2)

メタバースの音楽

 50年ほど前、拙作のなかに図形楽譜の作品が幾つかあった。
 本 Web サイトの表紙の一部なっているが、ヴァイオリン・ソロの「スカイ・プロズム」と、ハープのための「リンの詩(うた)」がその例だ。

 「スカイ・プリズム」は、その名の通りプリズムを回すことによりまれる音たちを、演奏家が即興で感じ取り、表現していく音楽だ。
 プリズムだから三角錐の中に音たちが、ちょうど宇宙の星のように浮かんでいて、それが三角の面が回ることによって、星たちの存在が変化していく仕組みになっている。
 三角だから一つの時間軸をドレミのド、もう一つを5度上のソ、最後の軸を更に5度上のレに設定すると、ドとソの面から見た星たちが浮かんでくる。しかし次の面、ソとレの面から見ると、同じ音たちが違う音の場所にいることになる。またドとオクターブ上のレの面を見ると、また代わったポジッションの音の存在に気がつく。「仮想空間」の音との交流がそこにはある。音楽の三次元の創造に於ける表現だったが、半世紀たっても誰からも理解してもらっていない。埋没したママか、眠ったママか、とにかく拙作の一番の自信作だが、なんの評価もされないママ時が過ぎて行った。

 子どもの「音楽づくり」など最適だと思うのだが、この仕組みを理解していただくことは、なかなか難しいようだ。
 なお、文中の拙作が二曲入った CD はフォンテックから発売されている。
 <FOCD2570>

イントロ勝負

 「イントロ当てクイズ」という音楽番組のコーナーがあった。数秒聞かせて回答者がタイトルを当てる企画だ。よく当てるマニアがいてびっくりしたことがあった。タイトルも大切だが、イントロは作曲者や他との差異性が出て、作品の生命線にもなっている。

 作曲家がゲストで議論に加わる企画など良くある。自己紹介でも、議題の扉での意見でも「爆弾発言」をする人が結構いる。イントロが大切なようだ。良く聞くと、中身は大したことではなくても、その後は普通の意見になっても、冒頭部の切り込みが面白い。作品を書くことと同じような人もいる。

 名曲の冒頭は、必ず爆弾導入かというとそうではないが、しかし静かに始まっても音楽構成(表現)は爆弾発言のような展開に広がっていく。

白蝶(はくちょう)の湖

 以前本ブログで、名村 宏作詞の合唱曲「蝶の谷」の話を書いた。その続編というわけではないが、ピアノ曲で「白蝶の湖」という曲があった。白蝶は美の化身であるという物語もあるが、おとぎ話に意味があるのではなく、変奏する姿(音楽)に意味があった。しかし日の目を見ないでとうとうオクラになったママになっている。

 それだけではない。三絃の独奏曲で、言葉あそびのテキストを語り弾きする音楽で、シャレも含んでいて私は大いに気に入っていたが、演奏家は嫌ったママでいる。

 言葉あそびを伝統的な奏法の演奏でシャーシャーと歌い上げ演じると面白いのだが、演奏家の誰もが賛同しなかったことになった。

 合唱曲で低音の唸り声から始まる奇妙な世界を描いたことがあった。唸り声と叫び声から広がる音世界は斬新な表現で私はすっかり気に入っていたが、声楽を学んだ人びとにはヒンシュクだった。結局誰もステージには乗せてくれなかった・・・結構私が納得した音楽でボツになったモノが多いという話だ。

 ボツ作品だけでリサイタルをやったら私も聴者も大満足だと思うが、その道の達人諸氏に受け入れてもらえない音楽は、やはり日の目を見ないことに意味があるのかもしれないとも思っている。

現代音楽の衰退

 音楽の最前線を表現するコンテンポラリーは無くならないだろう。世界の音楽の1%以下のファン数になっても、全作曲生産の0コンマ幾つかの数になっても、生き残っていくだろう。それは人智の音楽の極限からの叫びを求める人びともいるからだ。音楽世界の新次元は何時の時代でも望まれている。

 ただ聴者は増えていない。ファンは偏っているようだ。その最大の問題は、私も含むが「音楽の構造の秘密」と「聴き方」への誘いの努力を怠ってきたからのようだ。どこをどう聴いて、何を理解したらいいのか、その手ほどきや案内に精力を使わなかったことが問題だったようだ。だから最初は面白そう、変わっている・・・でも何回も聞きたくない、分からないのは自分の恥だ、と思わせたことが衰退に向かった理由の一つだと思われる。

 音楽系の大学や専門学校の先生も兼ねたひとは、切符を学生に売りつけたり、自作の作品発表に関する感想文の提出で出席や単位を出したりしていては、若い人びとの嫌悪感だけが残ってしまうことになってしまう。

 どうつくられていて、今までと(他人と)どう違い何が面白いと思っていたのか、言葉でも伝える努力をしないと、もっと衰退してしまうようかもしれない。

簡単なこと

 ひとは簡単なことができないことがある。演劇でもアマチュアは簡単な仕草ができない壁がある。プロは難しいことも簡単に演じてみせる。ちょっとしたことの差はとてつもなく深くて広い。

 昔、ベートーヴェンが偉いのは第九(合唱)などの交響曲や協奏曲などの大作が素晴らしいだけでなく「エリーゼのために」のような曲があるから凄いと雑誌に書いたことがあった。ヒット曲や名曲は簡単なことから始まっている。もちろん簡単にヒットするわけではない。創るひとに百の力があると、力まない数%の力で千の世界を伝えてしまう力が凄いのだ。アマチュアの人が書くと、頑張ってみても目も当てられない幼稚な音楽になることが多い。いや軽蔑して言っているのではない。誰でも最初はアマチュアなのだが、力まない秘めた力を自在に活用できる所までに至っていることが凄いことだと思っている。簡単なことができるということは、その人の実力内の余裕から生まれてきているようにも思える。

 そういえば、歳をとると簡単なことができなくなっていくようです。アマチュア化していくということでしょう。しかし全てはそこから始まったと思ったら、基本に戻っただけで、それも楽しみにするのがいいと思っている。

打楽器奏者

 打楽器は拙作のなかで、絶えず重要な役割を担ってくれてきた。マリンバを含め、芸術祭や日本レコードアカデミー賞などにも縁があった。

 だから私は演奏者に関して特別な思いが打楽器奏者にあった。しかし痛い目にばかり合わされてきたのも事実だった。

 「音楽づくり」を文化施設の人びとに体験していただき、地域文化振興にも役立てていただきたいと思って実施したことがあった。自分たちで「つくる」「表現する」、その芽を文化育成の原理として役立たせる、という意味で全国大会の別枠で企画していただいた時間を私は受け持った。

 小学校などでの幾つかの失敗を活かすため、音大卒の打楽器チームと打ち合わせをした。初めて打楽器を手にするひとが考えて、叩けて、それを一つのフレーズとしてつくったものを繰り返して、即興で表現していく手立てを徹底してリハーサルを繰り返した。全員分かったような顔をして舞台に登った。

 舞台では打ち合わせとは異質なレッスンが始まっていた。そしてグループに分け「サンバ」のパターンを押し付けていた。全員で舞台はサンバの祭りでも盛り上がって行った。全国に「音楽づくり」の誤解を伝達してしまった。

慣れるより習え②

 小学校の教室で「音楽づくり」を楽しむことにした。東京下町の小学校5年生ひとクラスに、音楽教育の専門家(学校のクラス担任と音楽教師も加わり)、作曲家の私、そして打楽器奏者3名ほどでチームを組んだ。
 子どもはプロのひとの仕草(表情から技術まで)を見ているから、技術を「教えないで、子どもが発見するまで待ってね」という依頼をした。何が違うか「考える」こと、素敵な音を「発見する」ことが一番大切で、それを基に簡単なリズム・パターンを子ども自身が考え、「つくり」「表現する」ことが目的だった。
 当然、子供をサポートする専門家チームは打ち合わせ、シミュレーションを繰り返し、本番に望むことにした。

 子どもたちは楽器庫から思い思いの打楽器とバチを出してきて叩き始めた。音が静かになったので、どうしたのか見ていると、打楽器奏者それぞれの前に子どもを一列に並ばせ、バチの持ち方、正しい打楽器の叩き方の「レッスン」を始めていた。
 打楽器からどんないい音が出せるか、考える時間を持たせることなくカタにはめて行った。きっと打楽器奏者の生い立ちもそうだったのだろう。そしてそれ以外の手立てを持ち合わせていなかったのだろが、本末転倒な時間になって行った。この打楽器奏者との体質はもっと大きな問題を産んで行った。

慣れるより習え①

 習うより慣れよ、と普通はいわれてきた。「ママごと」のように、見よう見まねから個性が目を出してきた。何事でもヘタなりの楽しみがあり、その道の名人の凄さを知り、憧れも生まれ、練習や努力から様ざまな「発見」が生まれ、自分で「考え」ながら本格的な勉強(習うこと)に入るのは、音楽に限らず全ての道に通じている。
 現代では、どの道(専門)でも技術など洗練されたシステムが用意されている。そして学ぶひとも早く体得したいから、他人より上手くなりたいから(?)慣れる前から習うことが選べるようになっている。

 ゴルフのコースに良く連れて行ってもらった時期が私にもあった。教えてくれる仲間もいたが、技術より仲間に迷惑をかけない程度のエチケットを旨に遊んでいた。それを見ていたワイフが「一度私もやってみたい」というので、練習場へ連れて行った。初めてだとクラブにボールが当たるのも難しいモノだ。
 空振りしても(経験だから・楽しいのが)「いいじゃない!」と褒めていた。そのうちにワイフに知らないオジさんが近付いてきて耳打ちをした。「あのひとに教わっていちゃゴルフは上手くならないよ」だって。

音が聞こえる②

 音楽は聴く人のグレードを選ばない。何も分かっていないようなひとでも、本質を見極めたと思っているひとでも、それぞれの力量に合わせて感動に導いてくれる。それだけ音楽自体は奥が深いといえる。
 耳のいいひとは、とにかくたくさん音楽を聴いている。音楽を情報として良く把握している。新しいもの、時代をつくっていくもの、他に影響を与える力があるものなども分かり、それだけで音楽のプロといえるひともいる。
 問題もある。つまり作者の手の内が読めることが多くなることだ。表現の冒頭から何を考えてつくっているか、そのソースは何処にあるか、次にどう話を進めたいか、その表現するテクニックがマッチしているか、など聞こえてくるよりも裏が見えてしまうことがある。実に興味を削ぐ結果になる。しかし手の内が分かっても感心する音楽もある。奥の深さはここにもある。

音が聞こえる①

 コンテンポラリーは情報収集とその分析から生まれる。突然作曲者がいいメロディーが浮かんだり、感情の抑揚だけで生まれるものではない。
 過去の偉人諸氏がどう表現したか、それまでの音楽との差異性により積み上げられた世界から生まれてくるものだ。恋愛することにより、または悲しみのドン底から這い上がるエネルギーにより生まれた、とは少々異なっている。
 時代劇の小説を書くにあたり、たくさんの資料を収集・分析していくうちに登場する人物が話し始める、その背景も映像が浮かび上がるというように、自然に見えてくるのと同じで、作者に音が聞こえてくるのを書き留めているのだ。
 それだけでは人びとに分かりづらいかもしれないので、ストーリーを提供することもある。それが面白いとストーリーの方だけ一人歩きすることもあるが、
実際は他者との小さな差異性から生まれてくることが多い。昔も今も同じことを、しかし誰も言っていなかった僅かな隙間から、作者は音を聞き取っているようだ。

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