Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 雑感 / MISC. (Page 1 of 5)

「蝶の谷」・岡崎市立矢作南小学校

 自作品が Youtube に載っていることがよくある。アニメを含め昔の作品なので、自慢より自戒の念を以って時々拝見していることが多かった。
 しかし、この「蝶の谷」は凄いと思った。子どもたち全員が、全身全霊を上げ生命を讃歌しているからだ。
 金賞をとれなかったようだが、私からすれば「ダイアモンド賞」の値打ちがあると思った。
 昔、小学校で子どもが「演歌を歌っている」と言われたことがあった。文句があると言うより、音楽室から漏れる歌声に、意外な響に先生がたや街の人びとは驚いたのかもしれない。もうこの曲が再現される時代ではないだろう。しかしこの合唱団による合唱の領域は確実に拡げていただいたと思っている。
 合唱団の人びとは、現在 40歳前後になられたでしょう。どんな蝶の谷を経験されて、その後の音楽観にどう影響されたのか、一度お伺いしてみたい気がしている。

「獅子の時代」タイトル編曲

 Youtubeで NHK大河ドラマのテーマ曲を見聞きすることができる。私がお手伝いさせていただいた‘80年放映「獅子の時代」は、ロックバンドと N響が初めてコラボした演奏と評価されていた。

  ‘ 79年秋、私はギリシャのヘロドアティコで、国際現代音楽祭入選作品のオーケストラ作品の初演に立ち合い、帰国後直ぐに紹介された仕事だった。
 ロックバンドの演奏は出来ていた。リズムと主旋律、ベース・ギターを含むコードも完成していた。普通はそれがバンドの作品サンプルで、バンドとオーケストラが同時に演奏して完成させるものだと誰もが思ったが、そのバンド演奏にオーケストラが後で加わり、同時に演奏した作品にする、という企画だった。そこで「三管編成※」のオーケストラとポップスができるひと、ということで私に役が回って来たようだった。

 ベースはボレロだった。ところがポップスのひとが感じるノリとクラシックのひととは違うところに戸惑いがあった。オーケストラのメンバーが合わせてくれた。
 ベースから各楽器の対旋律まで全部の楽器が良く鳴るように私は書き加えた。そして幾つかのポイントは、編集ボタンの瞬間操作でミックスした。失敗したら第一回の放映に間に合わなくなる、というスリルのなかで(故)小松一彦氏・楽団全員・音声(技術)さんの一致団結で完成させた・・・45年前のことを思い出させてくれた。

 ※「三管編成」=古典派時代の編成より管が基本三本ずつに増え、打楽器群・ハープなども加わった大規模なオーケストラ編成のこと

アマチュアの演奏会

 実績・伝統のあるアマチュア団体の文化会館での演奏会だけではなく、喫茶店や古民家、ホールのサロンで開かれる演奏会まで、機会を見つけては全国何処にでも出掛けって行って聴かせて貰っている。助成金財団の資料としても必要でもあるが、音楽の生まれるスペースが好きだから、予定が合う限り参加することにしている。

 この頃アマチュアの演奏会は多極化している。出来はともかく、一年間頑張った地域の文化を発信することに意義があるような会、自分たちが楽しむために集まって発表し合う会、地域の文化育成・次世代育成・音楽による地域文化振興の一助として実績を生み出している団体から、プロの領域に入っている、と思われる世界へ誘ってくれる団体まである。

 この頃、近代・現代の作品も取り上げられる様になった。 R・シュトラウス、ブルックナー、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィッチなど、普通にプログラムに組み込まれる様になった。隔世の感がある。古典派・ロマン派でない20世紀の音楽も大いに取り上げて欲しいと願っている。

名医

 どの町のどんな職業でも、天使の様な輝きを持っているひとと、信じられないほど酷いひとがいる。
 ある町の医師会と音楽のつながりでお付き合いさせていただいたことがあったが、天使と尊敬できるひとと、問題があるひとがいて驚いたことがあった。
その酷いひとに当たらないようにするには、口コミも参考にした情報量だろうが、情報が常に自分にとって正しいとは限らないから厄介な問題だ。
 幸い私は優れた先生にばかりお逢いしてきたようだ。

 歯科医の先生は、かなり酷い状態の歯でも最後までその歯を生かそうと手立てを講じてくれていた。だから歯で困っている仲間を紹介すると、みな感動していた。
 私の父母の主治医は、地域でも聞こえた名医だ。医院での診察が終わると在宅医療で飛び回り、夜中の急患対応までされている。だから緊急時に車を運転できないといけないから酒は飲まない習慣になっている。誰もが出来そうだが、行列のできる医師はそうはいない。

日本の作曲家偉人伝

 日本の現代音楽に関する名曲の話を綴ってきた。曲をつくる人、つまり作曲家に話を向けたら、これまた数十回の連載になってしまう。そのくらい日本には偉人が多いのだ。

 最近の話の一部をしよう。タレントとしての実績に目を向けがちだが、例えば、芥川也寸志・黛 敏郎(敬称略、各故人)の実力は常人の努力では届かない世界と交信した結果を私たちに聴かせてくれているようだ。つまり音楽・ミューズが微笑む源泉を私たちに振舞ってくれているようなのだ。
 口の悪い人は、音で感じる世界を見て書いている、と評価する人もいる。聞こえてくる音と同化して書いていないところが問題かもしれない、というが・・・
 しかしどう評論しようと、作曲年代の世界の音楽動向を伺ったとしても、勉強すれば表現できるという範疇を超えているように思える。
  TYや映画、舞台の音楽外の作品そのものを聴かれると、誰もが何か背筋がゾ〜とする感動をえるかもしれない。

褒められて育つ②

 一時期、放送やレコーディングのスタジオで、自作の劇音楽や他者の編曲作品などのオーケストラ曲を多数指揮していたことがあった。メンバーは在京のオーケストラからの選抜チームで、各楽器の名人が集まっていた。
 一曲に付き、楽譜のチェック用の音出し、テスト録音、そして本番の順だ。録音を確認して、事故がなければそれで OKが出て、次の曲に進んで行く。
 スタジオは室料と楽員の演奏料、技術料だけでも1時間数万円、人数によっては数十万円掛かるから、手際よく高品質でまとめて行かなければならない。

 そんなスタジオ仕事をしていたら、「指揮者になったら?」「在京オケのステージも務まるぞ!」というお褒めの言葉を何回かいただいた。褒めなれたことの少ない人は狂喜乱舞するかもしれないが、これだけは笑って応えなかった。

 指揮者が務まる人は指揮者になるべくして生まれて来ているように思っていた。音楽の様ざまな能力を持っているだけでなく、存在だけで音楽により人をとりこにさせる「華」がある。一緒に音楽をしたいオーラに包まれている・・・凄い力を醸し出してくるのだ。そんな力は私には無い。スタジオでの限られた条件のなかならみんなで創る作業はできるが、多くのファンに囲まれて輝けるのは、宇宙人とも会話できる一握りのひとだけだと思っていた。
 現在、多くの若手指揮者の活躍を見聞していると、惨憺たる有様になっていない自分を褒めてあげたいと思っている。

褒められて育つ①

 這えば立て、立てば歩め、の親心から、人は褒められて育っていく。
 食べ物でも、運動でも、本や勉強でも、好きなものを見つけ、親や友だちも優れたところを称賛して、本人も妬みを躱しながら褒められる世界を反復させて、才能を開花させていく・・・
 褒めて育てる、という著書の何と多いことか。

 音楽家も同じだ。歌が上手いね〜、声がいいね〜、ピアノが上手だね〜、身体表現がすごいね〜、など親や先生、仲間から何か褒められながら、本人もそれを柱に精進していく。作曲も「あそこがいいね〜」など褒められると、そこの特徴を生かした音楽を何度でも繰り返していく。
 「曲芸のサルと同じじゃないか」と言った人もいた。拍手をもらうために何度でもウケタ事を何年も繰り返していく。賛辞は性だ。

 私事で恐縮だが、音楽の勉強過程で褒められたことが無かった。歌うと、なぜか仲間は笑った。ピアノは二十歳の時から弾いたが、感心されてアンコールの呼び声も無かった。作曲も誰かに感心されたこともなかった。師匠からの「自分がいいと思ったらそれが一番いい」という言葉だけを信じて生きて来てしまった・・・誰からも褒められないので、自分で褒めて書き続けてきた。ヘンな話だ。

糸電話

 紙コップの底に糸を付け、ピンと張った二つのコップ間で会話をし合うと数メーター離れた人どうしが会話を楽しめる・・・誰もが子どもの頃、一回は経験した科学的なあそびだ。

 柔道で(相撲でもいい)、相手と組むと同じ現象を味わう。つまり相手の腰の動きが組んだ手から伝わってくるからだ。だから相手の動きが分かるから、それに対応すれば良さそうに思えるが、勝負や腰の動きは分かったから対応できるほど簡単な話ではない。一瞬で力の関係は変わり、勝負は決まる。ただその動きの応用を他に出来るかどうかで面白くなることもあるようだ。

 人と人との交流は、慣れると糸電話と原理は同じように見える。つまり組手に至らなくても、聞こえてしまうことがあるようだ。心の瞬時の動きは糸電話で話しているくらい伝わっていることもある。人はそこにいるだけで、実は糸電話で話しているのと同じ現象にあっている。

七つの机

 七面六臂という言葉がある。作曲の活躍でも言える話だ。とにかく、ドラマの付帯音楽を同時に数本、発表から出版に向けた合唱作品が数本同時に、現代音楽の器楽曲、オーケストラ作品、ミュージカルなど、続々と発表していた作曲家がいた。

 これも一つの才能だ。「引き出し」が幾つもあって、注文やジャンルに合わせて多量に発表し続けることができる・・・同じ机で書いていたら混乱する話を「七つの机」と評して賛辞の意で雑誌に書いた。

 ある時電話のベルが鳴った。当の作曲家からだった。「オマエ、何をデタラメなことを書くンだ」と、エライ剣幕だった。ところが悪気がない話なので「何が?どうして?」と怒鳴り声と噛み合わない話で時間が過ぎた。ケロッとした返答に愛想がついた声を出して電話は切れた。きっと机など七つもなく、それが嘘に思え、チャカされたと思ったのかもしれない。それくらい文章は読み手によって変わってしまうようで怖いと思った。

 その昔、劇版(ドラマの劇音楽)で、氏の書いた音楽に注文をつけたことがあった。これも氏の音楽に関心があったことと、意見を言うことによるコミュニケーションの意味があったが、その後何回も面白可笑しく公の場で宣伝されてしまった。具申というものは然程難しいものだと思った。

偉そうな声

 誰の声でも千変万化だ。環境や感情に溶け込んで、誰もが役者になれるのだ。

 エラソ~な声を出す人がいる。必ずピッチが低くなっている。押し殺した声にも思えるが、エラソ~、エラソ~と首の後ろの筋肉を硬めにして話している時がそれだ。ピッチを高くして威張ったら「喜劇」の場になる。女性でも低くなる。女性大臣が偉そうにしゃべる時は、必ずピッチが低くなっている。感情の起伏がある時は次第に高くなり、快楽の絶頂時はA(ドレミのラ)の音近辺で、それ以上の高さは悲鳴になる。

 疑っている声、ウソをついている声、敬虔な思いで話す時、怒りに震えている時、緊張感がまるでない時、説教する時、悲しみの時、人をバカにしている時、感動して出す声・・・声だけ聞いていても、人々の心の動きはしっかり聞き取れる。いや、そのくらい日常的に百面相ならぬ、百面声を人々びとに発している。誰もが「名優」だと言われる所以である。

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