Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 雑感 / MISC. (Page 1 of 4)

らしい〜のような音楽

 私は元々「〜らしく」などという意味不明な区別にはアレルギーがあった。
何が子どもらしいか、高校生らしい野球とは何か、男らしい、年寄りらしいとは何をさしているのか、全て意味不明な言葉だと思っている。
 
 企画制作責任者の範疇だが、酷い注文も時としてあった・・・「三善 晃のような合唱曲が欲しい」(なら、三善先生に委嘱すればいい)。「今売れている全員合唱作品の代わりにふさわしく・・・前奏4小節、歌い出しはユニゾンで、次第に盛り上がっていってクライマックスに・・・」、さすがに断った。注文者がそのように書いたらいいと思った。
 ワーグナーの楽曲のママでいい、アニメ創作のイメージが湧く、という注文を断れずに書いたことがあった。アレンジ部分より原曲のママのところが音楽として迫力があったが、そんなことより作家としてはマイナスな結果だったと思っていた。

 教団の青年たちが南方の大東亜戦争の被災地への慰問に行った。趣旨は素晴らしいが、みんなで歌う歌は戦時中の軍歌の替え歌だった。それでは慰問にならないので、踏襲した新しいみんなの歌を創って欲しい、という主催団体の企画に参加して愛唱歌を何曲か書いた。
 創作当時はそのお仕着せ賛歌も団体員に喜ばれたが、青年諸氏のその時代の人気ポップスとは異質だった。企画自体が問題だったかもしれないが、本当にいいことをしたのか疑問が残ったままになっている。

無視の日

  6月4日は「虫歯予防デー」だが、その後「虫の日」が加わり、最近では「無視の日」というゴロ合わせの日まであるようだ。

 人を意図的に無視する行為は、陰湿なイジメの一つだ。しかも狙ったひとを誰でも手軽に仲間から葬り去る手になっている。子ども社会でも、大人から組織でも日常茶飯に行われている。「村八分」という行為は今も現実的にある。 
 その被害は深刻で、人間関係はもちろん子どもの深層心理まで病魔の専有物となっている。だからイジメによる「悩み事相談」の記事が其処彼処にある。しかし問題の種は千差万別・十人十色で複雑怪奇な様相に特効薬は無いようだ。
 加害者は誰に何をしたのか忘れても、被害者の心の傷は一生癒えないものだ。癒えないだけでなく、自分も知らずに弱いものをいじめる智恵を身に付けてしまうことになる。私は物心ついた時からあらゆる機会に遭遇して来たので、その被害の深さを承知している。今でもどんな理由であれ、シカトしたヤツとは二度と信頼関係を持つことはない程強烈な意志だけが残っている。

 悩みの基は、人と仲良くすることを子どもの頃から躾けられていることだ。
 シカトされて悩むひとは、何処か自分にいけないところがある、嫌われる自分がいけない、と責めたり何かを反省したりしてしまう優しさを持ち合わせているから、傷が深くなるのである。どんな理由にでもシカトするヤツがいけないのであって、被害者が不幸を味わう理由は全くないのである。
 窮鼠猫を噛む怖さを秘めていた方がいい。その毒と使い方はここでは記せない。加害者は弱い消え入りそうな人にも毒があることを知るべきだ。その肝の据わりだけでも、みんな確と(しかと)気が楽になるはずだ。

ピアノでワークショップ

 ピアノで音楽ワークショップを展開するのは、なかなか難しい。ピアノがあれば音楽の様々なニーズへの応えや表現が可能になる。しかし楽器を動かせない、参加者の音楽での反応や顔が見えづらいことが問題になる。音楽を聴かせる、歌の伴奏をする時には威力を発揮するが、音楽づくりなどには余程工夫をしないと参加者のサポートに向かないことが多い。

 十年程前に北九州の文化施設を私はフラリと訪れたことがあった。そこで子どもと音楽家がワークショップを楽しんでいるスペースに遭遇した。アップライト・ピアノを壁側に向かって弾きながら、子どもの歩みで音楽を感じるあそびで湧いていた。簡単なバンプ(ブンチャ、ブンチャというリズム)を弾いているのだが「何という音楽だ」と感動するほど素晴らしく我が耳を疑った。私はその時知らなかったが「佐山雅弘」というジャズピアニストとその仲間による、子どもたちとの音楽ワークショップ企画だった。

 佐山さんは18年秋に亡くなられた。でも私はその時の出逢い以降、彼の音楽を聴きまくっていた。寺井尚子さんのジャズヴァイオリンとの協演や彼のピアノトリオに感動し、分かりやすくクラシック音楽をも包括するクリアな演奏とケレン味のないヴィルトオーゾは特筆だと思っていた。音楽の実力は、ライブやCD・DVDだけでなく、子どもとのコラボの瞬間に輝くのだと今でも思っている。

録音の妙

 同じ楽器編成。ここでは3〜4名の楽器アンサンブル。同じ場所で同じマイクを立てて、同じ条件での録音を順番に三人が挑戦した・・・録音した音楽を聴いてみた。これが三者三様で全然違った音楽録音になっていた。
 エコーやフィルターなどのお化粧をしないスッピンのママの音楽だが、録音した人の個性がしっかり残っていた。ひとりはシャリシャリした少しやせた音になり、もう一人はアンサンブルを生で聴いたママの響きがして、最後の人は高音や低音がふんわり伸びて行く感じで録音されていた。
 基は顔の輪郭だ。いくら化粧をしても輪郭は変わらない。三者はそれぞれプロだから、後は企画や作曲などの制作者や聴き手の好みとなる。

 私たちが携帯の簡易録音機材で同じ素材を録音しても、微妙に違って録れている。録る人の目(心)が何処にあるかで、変わってくるようだ。
 今までで一番驚いた録音は、フランス国籍(現・日本在住)のプロデューサーが「秩父夜祭」を録音して、日本の文化をヨーロッパの放送局で発表した作品を聴いた時だった・・・普通日本人が見聞する音ではない、竹が山車の車と軋み合った音の上で屋台囃子が鳴っている音風景だった。

 私の録音時のリズム隊はドラムスのキック(バスドラ)のつくりで決まった。録音技師の腕が一番だが、キックを固めの音につくり、それに太鼓類を順次重ね、ベースと合わせ、ギター・ピアノと加えて行くサウンドづくりだった。

宮本む○し

  JR西明石駅の商店街に「宮本む○し」という定食屋さんがあります。初めての町を何の目的も無くフラリと降りて出逢ったお店です。そして名前を見た瞬間に「面白い」という思いと「宮本武蔵」というイメージが同時に重なりました。しかし自宅に帰ってきて、宮本むさしではなく、何だったか思い出せなくなりました。すると、む○しの○に様々な文字が浮かんできて・・・むいし、むかし、むりし、むなし〜・・・「拙者、宮本むこしである」という映画のシーンを想い浮かべるとヘンだし、「宮本むごし」となると意味が変わってくる、など文字の組み替えを暫し楽しみました。そのうちに「宮本○さし」だったか記憶が怪しくなってきました。宮本くさし、ではなかったようだし、など連想は続いていきました。

 そういえば「佐々木小次郎」を「ささき しょうじろう」と読んだひとがいました。剣豪「こじろう」とは随分イメージが違って、昔の近所のおじさんを思い出す名前になったようでした。
 (文中の例に正解があります)

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