Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 雑感 / MISC. (Page 1 of 3)

宮本む○し

  JR西明石駅の商店街に「宮本む○し」という定食屋さんがあります。初めての町を何の目的も無くフラリと降りて出逢ったお店です。そして名前を見た瞬間に「面白い」という思いと「宮本武蔵」というイメージが同時に重なりました。しかし自宅に帰ってきて、宮本むさしではなく、何だったか思い出せなくなりました。すると、む○しの○に様々な文字が浮かんできて・・・むいし、むかし、むりし、むなし〜・・・「拙者、宮本むこしである」という映画のシーンを想い浮かべるとヘンだし、「宮本むごし」となると意味が変わってくる、など文字の組み替えを暫し楽しみました。そのうちに「宮本○さし」だったか記憶が怪しくなってきました。宮本くさし、ではなかったようだし、など連想は続いていきました。

 そういえば「佐々木小次郎」を「ささき しょうじろう」と読んだひとがいました。剣豪「こじろう」とは随分イメージが違って、昔の近所のおじさんを思い出す名前になったようでした。
 (文中の例に正解があります)

協創時代 ②

 日本で最も古く、国際的につながりのあるクラシック系の作曲家団体「日本現代音楽協会(略称:現音)」の会長職を、08年から5期お引き受けしたことがあった。歴代の会長(旧称:委員長)とは異色な理事(旧称:委員)であった。それは作曲家としての実績よりプロデューサーとしての活動が多かったからだ。しかし立候補制ではないのに多数の理事が推薦してくださった理由は、91年に現音創立60周年記念「東京現代音楽祭」のプロデューサー兼大会事務局長を引き受け、作曲家の活動領域を拡大させたからだろう。当時の大会会長の故・三善 晃先生は大会の副題に「おててつないで花いちもんめ」とあそび言葉を加えて下さった。要は子どもから大人まで、音楽のジャンルも超え、世界の友と交流するコンセプトだったのだ。それは「協創」の原型であり、新たな時代の創造に会員諸氏の支持をいただいたのかもしれない。

 作曲家は個人営業で、自作の力で多くの人びとと結び合っていることは今も昔も変わりはないのだ。その団体が作曲を通して世界と文化交流することは当然で、01年には「ISCM世界音楽の日々 横浜大会」が開催された。しかし現代では、それに加えてプロの音楽家(作曲家)が社会の人びとや次世代の子どもたちや、特に社会的な弱者にどうサポートするか問われていて、その活動も大切なのだ。個人だけでなく、団体としての使命が求められているはずなのだ。そこで90年以降の活動を充実すべく、日本でも初めての「音楽教育プログラム」をもつ活動チームを01年以降立ち上げ、学校や社会で活動を開始してきたのである。学校の子どもたちや市民との「協創」が展開していく時代が生まれたのだと思った。

協創時代 ①

 四半世紀前から拙作に「みんなでつくる」音楽活動が増えて来た。協働ではなく「協創(Creative collaboration)」というコンセプトだ。

 それはただ人びとが集まり、思い思いに音楽をつくるのではなく、一つのテーマを全員で共有し、プロもアマチュアも障がいのあるひとも、同じ目線で自分の技量と表現で、智恵を互角に出し合ってつくりあう工房、を意味していた。だから成果をあげることだけに意味があるのではなく、つくり合っている時の生きた音楽に意義があるのだ。もちろん発表の機会を否定しているわけではない。その優劣を競うことに意義があるわけではないからだ。

 企業なども同じキャッチを使っている活動を見たことがあったが、私の意図は技術の無い、社会的に弱いひとでも、過去の大作曲家と一体感が持てて、誰とでも仲良くなっていい音楽がつくれる、という意味の「協創」なのである。

 これまでに成果を発表したのは、 96年に「みんなでつくるシンフォニー」があった。東京フィルハーモニー交響楽団と子どもたちのワークショップでつくった音楽と、当日ご来場くださった市民のみなさんとつくった音楽。98年の「みんなでつくるコンチェルト」など、多くの人びととたくさんの音楽をご一緒させていただいた。協創はみんなのものだよ、という世界は民族音楽とは別の喜びがあって楽しくていいと思っている。

東日本大震災とハートライン

 東日本大震災が起きた一ヶ月後、私は宮城・福島を歩いて回っていた。音楽家でも自分の肌・耳目でこの大災害に触れることは大切だと思ったからだ・・・空気のニオイが厳しかった。 いつもは聞こえない音が鳴っていた。人びとの様々な命が重なって無音の中でも渦巻いた響を感じた。それはTVでは伝わらない世界だった。そして「災害支援」の旗・幟(のぼり)・横断幕を掲げたトラックが長蛇の列をなして街に入っていく様子は感動的な風景だった。そして地元の文化施設でお世話になり育ててもらった音楽家の人びとが「いま私たちに出来ることを手伝いたい」と、文化施設に多数の人びとがボランティアで訪ねて来たことには、深い感動を覚えた・・・

 災害の時に最初に復旧させるのは、水や電気、食料から道路などのライフラインだ。その次に必要なのはひとびととのつながり、「ハートライン」だろう。

 子どもが負った傷のケアも大人は考えている。県や市役所の関連窓口、学校の先生、地域の民生委員諸氏がそれぞれの活動をしている。プライバシーがあるから何とも言えないが、それぞれの役割に応じた活動であって、横の連絡も調整もないのでバラバラ感は否めない。

 それを公立文化施設などの講習会で提言して検討したが、どうハートラインが組めて、どんな活動が展開できるか優れた答えが出ないままでいるような気がしている。一つの決定的な答えでなくてもいい。悩みは災害に遭ったひとびとの数だけあるからだ。そのラインをみんなで考え共有すると、子どもたちに「やさしさ」がしっかり伝わるかもしれない。それが財産を生むことになると思った。

地域での人財育成

 自分たちの住む町には文化芸術に優れた人が必ずいる。その人びとと出逢い次世代の文化育成の種を蒔く、というのが私の文化事業の理念であった。
 文化事業のサポートで私は全国の公立文化施設にお邪魔してきた。どこの会館でも最初に職員のみなさんにお尋ねすることは「この町のひとを含めた文化的な財産は?」ということだった。普段気が付かない優れた町や村の文化財や、若い文化芸術に秀でたひとは潜在的に結構いるものだ。一人の存在を発見すると、世界の友まで田舎でも文化施設がつながることもあるからだ。以前にも述べたが「ここにもある企画、ここにしかない企画」の両輪が生きてくるのだ。
 注意しなければいけないことは、地元で教室などを持っている事業には触れないこと、地域で邑をつくっているボスではないひとの参加が大切だ、ということだった。しかし依頼者が私にサポートを期待した多くは、一流人への人脈づくりであり、国内外の一流団体やソリストやTV番組などが少しでも安く誘致できる手だてだった。買い物による鑑賞企画は、世界の超一流団体でも資金があれば何時でも何処でも誰でも叶う話なので、文化の種蒔き企画を拡げる事業とのミゾは大きかったように感じた。
 私が最初に市民文化会館の文化事業を仕事としてご紹介していただいた時も、最大の願望はクラシック音楽の充実にあったようだが、その基礎を市民と共に築き、文化的な自立から世界の異なる文化の価値観と交流する、というアイディアには失望させてしまったひともいたようだった。

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