Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 雑感 / MISC. (Page 2 of 4)

学校の音楽・校門から入出

 音楽、校門を出でず、という言葉があった。今はポップスでも教室に入り、習った歌も校門から出て行くこともある。児童・生徒にはそれぞれ好きな歌手や歌がある。それを教室で学び、みんなと共有することに不思議な感覚を持つこともある。また一方的に勉強させられる歌に共感を持つことも大変だ。

 学習指導要領があり、何をどう教えるか決められている。それに合った教材はなかなか無い。畢竟、編集部員がペンネームで狙いにあった歌をつくることにもなる。それを「猫なで声でつくるのではなく」と私が評してヒンシュクを買ったことがあった。

 もう学校で教わらなくても社会にはひとそれぞれが愛する音楽があるからいらないのではないか、と平気で言う学識経験者がいる。音楽の大切さは誰もが知っているから、わざわざ教室で学ばなくても、という意見だが、学校で取り上げる学習という概念とシステムを忘れるとどうなるかを、私たちは知らなければいけない。

 いい歌は校門の内外に多数ある。出入り自由だ。社会でヒットするかだけでなく、どんなハンディがあっても自分たちでつくった音楽が校門を行き来するようにもなると、生きた音楽の社会との交流にもなって行くと思う。

文化事業のやり残し②

 学校と連携した文化事業に対して、結局私は十分な成果を上げられなかった。
 文化施設は教育の場では無い。学校とは違う。しかし柔らかな「社会教育」のひろばとして愛されてきた。公民館、文化会館と、それぞれに成果は上げてきていた。合唱だって、ブラスやオーケストラだって、日本の伝統文化でも実績は大きいし、誰も不満に思っている人はいない。

 「つくる」ということが大変だ。過去を保持すれば生まれるというものでもないし、破壊すればいいわけでもない。そんなに創造性を人々が求めているわけでもないだろが、文化を守るということはアグレッシブルな姿勢も必要だ。それを考えると億劫になることもあるが、学校の成果を一段高めるには文化施設の創造の場への開放が必要なのだ。その手立てがありながら、鹿鳴館時代の延長文化を追従しているところには、目が行き届かない現実がある。もったいないとも思いながらも私には限界があった。やり残してしまった感がある。しかし誰かがこれをクリアし、育ててくれるように思えるが、もう少し時間が必要かもしれない。次世代に期待したい!

文化事業のやり残し①

 全国の公立文化施設に文化事業の相談に伺わせていただいた日々があった。
 文化施設の希望は市民にアピールできるイベントの招致が一番だった。世界で、日本で、誰もが知っていて(それゆえ集客が可能、話題性があり、紹介があると割り引かれ、その結果実績にもなり、赤字が少額)企画の「招致」方法だった。要はツテを頼りのプロモート助言が多かったようだ。
 
 私の提案は、地元人材(地元の名士だけでなく、若い音楽仲間とそのつながり)の発掘と、情報だけでも交流して「何が生まれるか」考え、生み出すことだった。でも誰でも地元でなく、東京や世界の有名人とのコンタクトを望んでいた。
 結果的に有名団体の招聘でもいい。しかし「私たちの文化も伝統芸能だけが護られているだけでなく、新しい文化の命が生まれていて、そことの交流が無いのは“消費”だけだ」と私は思っていた。文化は消費と創造が車の両輪で、田舎といっても創造する心はパリやニューヨークと同じだ、というのが考えのベースにあった。でなければ青い目の文化が第一だと思う過去の姿勢と同じよう思えたのだ。
 全部の文化施設が同じ姿勢でないまでも、市民の文化会館への期待はがっかりするものだった・・・いや、本当は市民の文化の価値観は進んでいて、世界のポップスなどへの価値観は最先端で、それを文化施設が把握して、実行するまでに時間が掛かっているということもあるだろう。ポップスなど集客人数からして同列で論議できないこともあるからだ。
 

音楽大学・音楽専門学校

 「四年間、好きな音楽三昧で暮らして学士の資格。何が問題だ」と或る音大の学部長の言葉に、以前私はムッとしたことがあった。出口(卒業)で社会とのつながりが希薄なため、学んだ音楽が生かされる領域が少ないのに、学生時代が満足ならそれでいい、とは無責任だと思っていたからだ。

 舞台芸術のトップを目指す・・・千人に1名のエリートを育てることも必要だろうが、同じ価値観から外れた人びとの救済は考えていない。教師にでもなったら(教員の資格が取れる制度があればいいが)、町の音楽教室の指導者や、ブラスバンドの指導者になればいい、とうそぶく先生もいたが、音楽家が社会で果たす役割は多いはずだ、と私は思ってきたから育成のシステムからして問題だと考えて来た。

 親と毎日のようにケンカしている、という学生が何名かいた。「高い学費を払っているのだから○○だ」と責められるのだそうだ。一方親は「卒業したら何の仕事に就けるのか」「就職をお世話してくれるのか」と大学や学校側に質問してくる。

 「ひとそれぞれ才能にもよりますし・・・」「文学部を出ても、作家や文学の専門家になるわけではないし、サラリーマンになるひともいる」と他人事のような返事が返ってきた。

 もう40年も前から私は音楽雑誌に音楽大学の未来とその時の役割を描いてきた。舞台に立つだけでないコミュニティー・ミュージックで活躍出来る環境も手だてもみんなでつくっていかなければならないという話しだ。最近それを考える学科が出来はじめてきた。でも教える側が未経験な領域だけに成果はこれからになる。それを待たずに音楽を専門とする教育機関が弱ってしまうかもしれないと思っている。

神宮司 聖(じんぐうじ せい)

 昔の話しを載せるのはどうかと思っていた。何時も最新がいいからだ。でも一つ載せてみたくなった。自慢話ではない失敗談は大切だと思った。

「神宮司 聖」という名前を知っている人はごく僅かだ。私のペンネームで、大阪城が落城した時に、そこで祀られていた地蔵菩薩を授かり、昭和の時代に八王子でそれを御守りしていた行者さんが名付けてくださった名前だ。

 現代音楽とは別に、大人から子どもまで人びとに愛される「うた」をつくるひとにふさわしい名前が宜しい、というのが理由であったが、しかし「神様のお宮を司る聖人」とは恐れ入ってしまった。顔から火が出て、穴があったら入りたい気持ちもあったが、拝命には意味があるだろうと感謝した。

 丁度、宗教団体の愛唱歌をつくらせていただいていた時期だったので、早速名乗ってみたが、一番大きな出会いは歌の女王「美空ひばり」(日本コロムビア)嬢との仕事だった。

 プロデューサーは「ひばりというと英知の限りをつくして難しく書いてしまう。うんと簡単な、誰にでも歌えるうたをつくって欲しい」という依頼だった。

 電撃トレードで阪神から巨人に移った江川 卓が話題になった年、ひばり嬢が低迷期で世間さまから叩かれ苦しんでいた年にリリースされた。

 簡単なうたで多くの人びとに喜ばれるなら最高の慶びだが、しかし大きく外れてしまった。「センセ、私と組んでソンしたひといないから」という励ましは嬉しかったが、簡単なうたがつくれない聖がトコトン名前負けしてしまったことは、あらゆるひとびとに申し訳無かったと今尚ながら思っている。

 ※ CDでも売られているが、Youtubeで美空ひばり「昭和ながれ花」がのっている。当時の B面「ふる里は遠い空」も出ているようだ。

謹賀新年

 あけまして おめでとうございます

 本ページにご訪問くださった全ての人びとに感謝し、ご多幸をお祈り申し上げます

 これまで「一流の劣等生」である私の慢心創意*による音楽を中心に、馬脚を露わしながら文化芸術の一端を語って参りましたが、今年もみな様とより強烈に交流させていただきたいと願っています。

 (*慢心創意は満身創痍からの造語)

故事から新事

 詩人の谷川さん、波瀬満子さんたちがつくった「ことばあそびの会」は以前ここでふれたことがある。一つの言葉やその切っ掛けから連想する世界をふくらませるのは、音楽をつくることと同じで、随分トレーニングさせてもらった。ダジャレも多く、言葉を大切にする人びとからは嫌われたが・・・

 「青天の辟易」というのがある。晴天時に突然雷が鳴る(霹靂)ことと同じで、突然何かが起こることにうんざりするというシャレだ。

 「君子危うきに近寄らず」という言葉と「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という故事がある。しかし「虎穴の出口で虎児を待つ」となると意味深で、様ざまな場面が空想できる。

 子どもの頃に「鳴かずんば 鳴くまで待とうホトトギス」『・・・鳴かせてみようホトトギス』『・・・殺してしまえホトトギス』という有名な句に出会った。家康・秀吉・信長を良く表しているといわれた。それを「鳴かずんば 自分で鳴こうホトトギス」と言って、子ども仲間に受けたことがあった。ところがその後、同じことを言って知事になった人がいた。有名人の宣伝文句に私はすっかり白けて、以後封印してきた。

 同種のあそびは一冊の本が出来るほどあるが、その内容に価値があるのではなく、温故知新はその種のあそびから誰でも面白い創造への誘いがあるように思われる、というサンプルとして思い出した。

校内流行歌禁止

 校則の見直しがニュースになっている。私の子どもの頃だってヘンな校内ルールがあって、校内で社会を学ばせてもらったことが多かったようだ。
 いつの時代のどの学校にも「聖職」を地で行く先生がおられたなか、「愛のムチ」(暴力)を振り回す先生もいた。明確な理由もなく坊主頭にされたし、あれはイカン、これはダメの、でシバリまくり、先生は児童生徒を護ってくれない、裏切るのは当たり前で味方や理解者にはならないのが大人だと教えてくれた。

 ヘンな代表例が「流行歌を校内で歌ってはいけない」という指導だった。生徒は世の流行に敏感だ。歌だけではなく何でも話題に触れてマネてみたいモノだ。ところが流行歌を歌うと、映画館に行くと不良になる、というのが理由で禁じられていた。一時ビートルズの歌やカッコをマネるのは禁止、と教育委員会が文句を付けたことは有名な話しだ。でも子どもの個性はそれらのカベを乗り越えて価値観を豊かに培って行ったようだ。

 みんなで考えつくった社会のルールは護らなければいけない。しかし流行歌を含む文化芸術などの個人の選択は、先生が禁止する行為は人権無視にあたる。
 ルールはドンドン破られるから面白いのだ。そう、名曲にある作曲者の作品番号は「前科何番」を意味しているから、今でも新しいのだ。

老化と新化

 老化現象は凄まじく楽しい。誰でも高齢になるに従い、主にアナログの身体部は劣ってくる。厄介なことが多くなり、その手続きが煩わしくなるものだ。高齢ドライバーが勘違いする事故も多いが、それはデジタルの信号を送ってもアナログ部に伝わっていなかったりするからだ。

 高齢化は指先、口元からといわれていたが、目も耳も怪しくなる。ところが人によるのだろうが、今まで見えなかったモノが見え、聞こえなかった音が聞こえるようになってくる。別に霊界の呼びかけが分かるワケでは無い。何を考えてどうつくりたいのか、作品づくりの瞬間が見て取れることもそのうちの一つだ。音楽の表現でも、みんなが理解できる共通言語も必要だが、聴いたこともない手で知らなかった世界に誘ってくれるのが芸術の面白いところだ。しかしなかなかそんな世界は滅多にお目に掛からない。結構バレバレな表現で誤魔化しているひとが多いモノだ。

 聞こえなかった音たちが浮かび上がってくる、ということは個々の楽器やアンサンブルで呼び起こされる「倍音」の上に現れる新たな音の組み合わせのことだ。音には純音もあるが、大体様々な倍音が一杯詰まっているものだ。それをどうひとは感じ、表現して、私たちは空間に響く音たちと触れ合っているかが音楽の醍醐味なのだ。名人たちの倍音づくりも面白いが、実はヘタな人のアンサンブルの高周波成分のぶつかり合いの方が面白い時がある。その周囲の聴力は衰えたかもしれないが、可聴範囲で聴き合える倍音のぶつかり合いによる新次元は、気が付いたら高齢者の楽しみの特権かもしれない。

名村 宏

 作詞家の「名村 宏」氏をご存じの方は少ないかもしれない。主に子どもの歌の作詞をされていた。キングレコードの専属だったこともあった。私は90年代にキングのディレクターの紹介でお仕事をさせていただいた。

 亡くなられて15年以上経つだろうか… ご自分の誕生日のお祝い用に缶ビールを冷やしておいて、飲む前にお風呂に入って、そのママ一人で乾杯することもなく亡くなられた。

 公表されている氏の作品リスト内には、私は多くの子どもの歌を当時書いていたことが分かる。それを氏より十年程早く無くなった奥さんが、新作が発売されるといつでも何処でも何百回も歌い続けてくださった話しを、奥さんが亡くなられた後に氏よりお聞きした。ご主人のお仕事も深く愛され暮らしておられた証拠だと私は思った。と同時にたった一人でも深く愛して歌ってくれ続けた人がいたことが私には誇りだった。

 合唱組曲もつくらせていただいた。You Tubeで「蝶の谷」を検索すると合唱コンクールで歌われた「岡崎市立矢作南小学校」の熱演を聞くことが出来る。

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