Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 雑感 / MISC. (Page 3 of 4)

ジュニア・オーケストラ

 半世紀前には考えられなかったステージが全国で展開している。小中高生を中心としたオーケストラが各地で育っていて、その成果が評価され始めていることだ。全国のそれらの団体の多くを私は拝聴して来ている。

 四半世紀前でも、オーケストラに準じた音楽団体が生まれていたが、まだ微笑ましいアマチュア団体というレヴェルだったように思われる。そこから育った子どもが世界を闊歩する実績になった人もいたが、そこで習得した技術のクセがその後の才能を閉ざしてしまったこともあったようだ。

 今は違う。プロの、しかも一流オーケストラの主席奏者の指導チームが直接子どもを指導している団体が増えた。ママごとから発展した大人と同じような音楽のコピーがステージに拡がっている。そこに賞賛はあっても文句は無い。それはステージの披露を踏襲した成果の表れだが、演奏も出来ない子どもとの共有に向かう手だても残しておかなければいけないような気がしている。鹿鳴館の時代ではないのだから。しかし、指導者にそのヴィジョンがないので、なかなか新たな音楽の共有が、技術を持たない人びとと出来ないでいる。 SDGsの時代、その手だてはすでに学校や社会でも実績が積まれていて、これからの半世紀に楽しみが拡がって行くように思われる。演奏指導者はそこが今後の課題となっていくように思われる。

東京文化会館チェンバーオーケストラ

 東京文化会館が主催してきた「東京音楽コンクール」の上位入賞者が集い、室内オーケストラの演奏会がこの11月26日に同館で開催された。

 文化会館がオーケストラや合唱団を持ち、市民に質の高いプログラムを提供する時代になってから大分経った。東京でも実現した形だが、他と異なるのは国際的なコンクールを実施して、その受賞者にステージを設け、受賞後の各個人の活動を支援してきて、更に室内オーケストラに発展させているところだ。

 コンクールで人財を発掘させるだけでなく、その後の支援を続けている会館の活動は素晴らしいことだと思われる。

 演奏曲目は、シューマンのピアノ協奏曲、ベートーヴェンの交響曲第二番等だったが、26人の編成は新鮮で豊かなアンサンブルを聴かせてくれていた。それは在京のオーケストラ団体が再編する時にも参考になり、大都市で同規模のオーケストラが続々と誕生し、文化芸術活動ができる時代になっていく予告になったようだ。とにかく優秀な若手音楽家が多数在住している都市が多いのだから・・・

 アンサンブルをまとめた指揮者は、国内外で大活躍の若手のひとり「三ツ橋敬子」氏だが、本公演だけでなく、その後「オーケストラ・プロジェクト」などの現代音楽プログラムの日を拝聴しても、作品・オーケストラの生命を瞬時に捉え、ステージを越えて音楽を人びとに開放させてしまう力は、その人気・実力をもってこれからの音楽界を至福の世界に誘ってくれる気がした。

らしい〜のような音楽

 私は元々「〜らしく」などという意味不明な区別にはアレルギーがあった。
何が子どもらしいか、高校生らしい野球とは何か、男らしい、年寄りらしいとは何をさしているのか、全て意味不明な言葉だと思っている。
 
 企画制作責任者の範疇だが、酷い注文も時としてあった・・・「三善 晃のような合唱曲が欲しい」(なら、三善先生に委嘱すればいい)。「今売れている全員合唱作品の代わりにふさわしく・・・前奏4小節、歌い出しはユニゾンで、次第に盛り上がっていってクライマックスに・・・」、さすがに断った。注文者がそのように書いたらいいと思った。
 ワーグナーの楽曲のママでいい、アニメ創作のイメージが湧く、という注文を断れずに書いたことがあった。アレンジ部分より原曲のママのところが音楽として迫力があったが、そんなことより作家としてはマイナスな結果だったと思っていた。

 教団の青年たちが南方の大東亜戦争の被災地への慰問に行った。趣旨は素晴らしいが、みんなで歌う歌は戦時中の軍歌の替え歌だった。それでは慰問にならないので、踏襲した新しいみんなの歌を創って欲しい、という主催団体の企画に参加して愛唱歌を何曲か書いた。
 創作当時はそのお仕着せ賛歌も団体員に喜ばれたが、青年諸氏のその時代の人気ポップスとは異質だった。企画自体が問題だったかもしれないが、本当にいいことをしたのか疑問が残ったままになっている。

無視の日

  6月4日は「虫歯予防デー」だが、その後「虫の日」が加わり、最近では「無視の日」というゴロ合わせの日まであるようだ。

 人を意図的に無視する行為は、陰湿なイジメの一つだ。しかも狙ったひとを誰でも手軽に仲間から葬り去る手になっている。子ども社会でも、大人から組織でも日常茶飯に行われている。「村八分」という行為は今も現実的にある。 
 その被害は深刻で、人間関係はもちろん子どもの深層心理まで病魔の専有物となっている。だからイジメによる「悩み事相談」の記事が其処彼処にある。しかし問題の種は千差万別・十人十色で複雑怪奇な様相に特効薬は無いようだ。
 加害者は誰に何をしたのか忘れても、被害者の心の傷は一生癒えないものだ。癒えないだけでなく、自分も知らずに弱いものをいじめる智恵を身に付けてしまうことになる。私は物心ついた時からあらゆる機会に遭遇して来たので、その被害の深さを承知している。今でもどんな理由であれ、シカトしたヤツとは二度と信頼関係を持つことはない程強烈な意志だけが残っている。

 悩みの基は、人と仲良くすることを子どもの頃から躾けられていることだ。
 シカトされて悩むひとは、何処か自分にいけないところがある、嫌われる自分がいけない、と責めたり何かを反省したりしてしまう優しさを持ち合わせているから、傷が深くなるのである。どんな理由にでもシカトするヤツがいけないのであって、被害者が不幸を味わう理由は全くないのである。
 窮鼠猫を噛む怖さを秘めていた方がいい。その毒と使い方はここでは記せない。加害者は弱い消え入りそうな人にも毒があることを知るべきだ。その肝の据わりだけでも、みんな確と(しかと)気が楽になるはずだ。

ピアノでワークショップ

 ピアノで音楽ワークショップを展開するのは、なかなか難しい。ピアノがあれば音楽の様々なニーズへの応えや表現が可能になる。しかし楽器を動かせない、参加者の音楽での反応や顔が見えづらいことが問題になる。音楽を聴かせる、歌の伴奏をする時には威力を発揮するが、音楽づくりなどには余程工夫をしないと参加者のサポートに向かないことが多い。

 十年程前に北九州の文化施設を私はフラリと訪れたことがあった。そこで子どもと音楽家がワークショップを楽しんでいるスペースに遭遇した。アップライト・ピアノを壁側に向かって弾きながら、子どもの歩みで音楽を感じるあそびで湧いていた。簡単なバンプ(ブンチャ、ブンチャというリズム)を弾いているのだが「何という音楽だ」と感動するほど素晴らしく我が耳を疑った。私はその時知らなかったが「佐山雅弘」というジャズピアニストとその仲間による、子どもたちとの音楽ワークショップ企画だった。

 佐山さんは18年秋に亡くなられた。でも私はその時の出逢い以降、彼の音楽を聴きまくっていた。寺井尚子さんのジャズヴァイオリンとの協演や彼のピアノトリオに感動し、分かりやすくクラシック音楽をも包括するクリアな演奏とケレン味のないヴィルトオーゾは特筆だと思っていた。音楽の実力は、ライブやCD・DVDだけでなく、子どもとのコラボの瞬間に輝くのだと今でも思っている。

録音の妙

 同じ楽器編成。ここでは3〜4名の楽器アンサンブル。同じ場所で同じマイクを立てて、同じ条件での録音を順番に三人が挑戦した・・・録音した音楽を聴いてみた。これが三者三様で全然違った音楽録音になっていた。
 エコーやフィルターなどのお化粧をしないスッピンのママの音楽だが、録音した人の個性がしっかり残っていた。ひとりはシャリシャリした少しやせた音になり、もう一人はアンサンブルを生で聴いたママの響きがして、最後の人は高音や低音がふんわり伸びて行く感じで録音されていた。
 基は顔の輪郭だ。いくら化粧をしても輪郭は変わらない。三者はそれぞれプロだから、後は企画や作曲などの制作者や聴き手の好みとなる。

 私たちが携帯の簡易録音機材で同じ素材を録音しても、微妙に違って録れている。録る人の目(心)が何処にあるかで、変わってくるようだ。
 今までで一番驚いた録音は、フランス国籍(現・日本在住)のプロデューサーが「秩父夜祭」を録音して、日本の文化をヨーロッパの放送局で発表した作品を聴いた時だった・・・普通日本人が見聞する音ではない、竹が山車の車と軋み合った音の上で屋台囃子が鳴っている音風景だった。

 私の録音時のリズム隊はドラムスのキック(バスドラ)のつくりで決まった。録音技師の腕が一番だが、キックを固めの音につくり、それに太鼓類を順次重ね、ベースと合わせ、ギター・ピアノと加えて行くサウンドづくりだった。

宮本む○し

  JR西明石駅の商店街に「宮本む○し」という定食屋さんがあります。初めての町を何の目的も無くフラリと降りて出逢ったお店です。そして名前を見た瞬間に「面白い」という思いと「宮本武蔵」というイメージが同時に重なりました。しかし自宅に帰ってきて、宮本むさしではなく、何だったか思い出せなくなりました。すると、む○しの○に様々な文字が浮かんできて・・・むいし、むかし、むりし、むなし〜・・・「拙者、宮本むこしである」という映画のシーンを想い浮かべるとヘンだし、「宮本むごし」となると意味が変わってくる、など文字の組み替えを暫し楽しみました。そのうちに「宮本○さし」だったか記憶が怪しくなってきました。宮本くさし、ではなかったようだし、など連想は続いていきました。

 そういえば「佐々木小次郎」を「ささき しょうじろう」と読んだひとがいました。剣豪「こじろう」とは随分イメージが違って、昔の近所のおじさんを思い出す名前になったようでした。
 (文中の例に正解があります)

協創時代 ②

 日本で最も古く、国際的につながりのあるクラシック系の作曲家団体「日本現代音楽協会(略称:現音)」の会長職を、08年から5期お引き受けしたことがあった。歴代の会長(旧称:委員長)とは異色な理事(旧称:委員)であった。それは作曲家としての実績よりプロデューサーとしての活動が多かったからだ。しかし立候補制ではないのに多数の理事が推薦してくださった理由は、91年に現音創立60周年記念「東京現代音楽祭」のプロデューサー兼大会事務局長を引き受け、作曲家の活動領域を拡大させたからだろう。当時の大会会長の故・三善 晃先生は大会の副題に「おててつないで花いちもんめ」とあそび言葉を加えて下さった。要は子どもから大人まで、音楽のジャンルも超え、世界の友と交流するコンセプトだったのだ。それは「協創」の原型であり、新たな時代の創造に会員諸氏の支持をいただいたのかもしれない。

 作曲家は個人営業で、自作の力で多くの人びとと結び合っていることは今も昔も変わりはないのだ。その団体が作曲を通して世界と文化交流することは当然で、01年には「ISCM世界音楽の日々 横浜大会」が開催された。しかし現代では、それに加えてプロの音楽家(作曲家)が社会の人びとや次世代の子どもたちや、特に社会的な弱者にどうサポートするか問われていて、その活動も大切なのだ。個人だけでなく、団体としての使命が求められているはずなのだ。そこで90年以降の活動を充実すべく、日本でも初めての「音楽教育プログラム」をもつ活動チームを01年以降立ち上げ、学校や社会で活動を開始してきたのである。学校の子どもたちや市民との「協創」が展開していく時代が生まれたのだと思った。

協創時代 ①

 四半世紀前から拙作に「みんなでつくる」音楽活動が増えて来た。協働ではなく「協創(Creative collaboration)」というコンセプトだ。

 それはただ人びとが集まり、思い思いに音楽をつくるのではなく、一つのテーマを全員で共有し、プロもアマチュアも障がいのあるひとも、同じ目線で自分の技量と表現で、智恵を互角に出し合ってつくりあう工房、を意味していた。だから成果をあげることだけに意味があるのではなく、つくり合っている時の生きた音楽に意義があるのだ。もちろん発表の機会を否定しているわけではない。その優劣を競うことに意義があるわけではないからだ。

 企業なども同じキャッチを使っている活動を見たことがあったが、私の意図は技術の無い、社会的に弱いひとでも、過去の大作曲家と一体感が持てて、誰とでも仲良くなっていい音楽がつくれる、という意味の「協創」なのである。

 これまでに成果を発表したのは、 96年に「みんなでつくるシンフォニー」があった。東京フィルハーモニー交響楽団と子どもたちのワークショップでつくった音楽と、当日ご来場くださった市民のみなさんとつくった音楽。98年の「みんなでつくるコンチェルト」など、多くの人びととたくさんの音楽をご一緒させていただいた。協創はみんなのものだよ、という世界は民族音楽とは別の喜びがあって楽しくていいと思っている。

東日本大震災とハートライン

 東日本大震災が起きた一ヶ月後、私は宮城・福島を歩いて回っていた。音楽家でも自分の肌・耳目でこの大災害に触れることは大切だと思ったからだ・・・空気のニオイが厳しかった。 いつもは聞こえない音が鳴っていた。人びとの様々な命が重なって無音の中でも渦巻いた響を感じた。それはTVでは伝わらない世界だった。そして「災害支援」の旗・幟(のぼり)・横断幕を掲げたトラックが長蛇の列をなして街に入っていく様子は感動的な風景だった。そして地元の文化施設でお世話になり育ててもらった音楽家の人びとが「いま私たちに出来ることを手伝いたい」と、文化施設に多数の人びとがボランティアで訪ねて来たことには、深い感動を覚えた・・・

 災害の時に最初に復旧させるのは、水や電気、食料から道路などのライフラインだ。その次に必要なのはひとびととのつながり、「ハートライン」だろう。

 子どもが負った傷のケアも大人は考えている。県や市役所の関連窓口、学校の先生、地域の民生委員諸氏がそれぞれの活動をしている。プライバシーがあるから何とも言えないが、それぞれの役割に応じた活動であって、横の連絡も調整もないのでバラバラ感は否めない。

 それを公立文化施設などの講習会で提言して検討したが、どうハートラインが組めて、どんな活動が展開できるか優れた答えが出ないままでいるような気がしている。一つの決定的な答えでなくてもいい。悩みは災害に遭ったひとびとの数だけあるからだ。そのラインをみんなで考え共有すると、子どもたちに「やさしさ」がしっかり伝わるかもしれない。それが財産を生むことになると思った。

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