Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

カテゴリー: 雑感 / MISC. (Page 4 of 5)

協創時代 ①

 四半世紀前から拙作に「みんなでつくる」音楽活動が増えて来た。協働ではなく「協創(Creative collaboration)」というコンセプトだ。

 それはただ人びとが集まり、思い思いに音楽をつくるのではなく、一つのテーマを全員で共有し、プロもアマチュアも障がいのあるひとも、同じ目線で自分の技量と表現で、智恵を互角に出し合ってつくりあう工房、を意味していた。だから成果をあげることだけに意味があるのではなく、つくり合っている時の生きた音楽に意義があるのだ。もちろん発表の機会を否定しているわけではない。その優劣を競うことに意義があるわけではないからだ。

 企業なども同じキャッチを使っている活動を見たことがあったが、私の意図は技術の無い、社会的に弱いひとでも、過去の大作曲家と一体感が持てて、誰とでも仲良くなっていい音楽がつくれる、という意味の「協創」なのである。

 これまでに成果を発表したのは、 96年に「みんなでつくるシンフォニー」があった。東京フィルハーモニー交響楽団と子どもたちのワークショップでつくった音楽と、当日ご来場くださった市民のみなさんとつくった音楽。98年の「みんなでつくるコンチェルト」など、多くの人びととたくさんの音楽をご一緒させていただいた。協創はみんなのものだよ、という世界は民族音楽とは別の喜びがあって楽しくていいと思っている。

東日本大震災とハートライン

 東日本大震災が起きた一ヶ月後、私は宮城・福島を歩いて回っていた。音楽家でも自分の肌・耳目でこの大災害に触れることは大切だと思ったからだ・・・空気のニオイが厳しかった。 いつもは聞こえない音が鳴っていた。人びとの様々な命が重なって無音の中でも渦巻いた響を感じた。それはTVでは伝わらない世界だった。そして「災害支援」の旗・幟(のぼり)・横断幕を掲げたトラックが長蛇の列をなして街に入っていく様子は感動的な風景だった。そして地元の文化施設でお世話になり育ててもらった音楽家の人びとが「いま私たちに出来ることを手伝いたい」と、文化施設に多数の人びとがボランティアで訪ねて来たことには、深い感動を覚えた・・・

 災害の時に最初に復旧させるのは、水や電気、食料から道路などのライフラインだ。その次に必要なのはひとびととのつながり、「ハートライン」だろう。

 子どもが負った傷のケアも大人は考えている。県や市役所の関連窓口、学校の先生、地域の民生委員諸氏がそれぞれの活動をしている。プライバシーがあるから何とも言えないが、それぞれの役割に応じた活動であって、横の連絡も調整もないのでバラバラ感は否めない。

 それを公立文化施設などの講習会で提言して検討したが、どうハートラインが組めて、どんな活動が展開できるか優れた答えが出ないままでいるような気がしている。一つの決定的な答えでなくてもいい。悩みは災害に遭ったひとびとの数だけあるからだ。そのラインをみんなで考え共有すると、子どもたちに「やさしさ」がしっかり伝わるかもしれない。それが財産を生むことになると思った。

地域での人財育成

 自分たちの住む町には文化芸術に優れた人が必ずいる。その人びとと出逢い次世代の文化育成の種を蒔く、というのが私の文化事業の理念であった。
 文化事業のサポートで私は全国の公立文化施設にお邪魔してきた。どこの会館でも最初に職員のみなさんにお尋ねすることは「この町のひとを含めた文化的な財産は?」ということだった。普段気が付かない優れた町や村の文化財や、若い文化芸術に秀でたひとは潜在的に結構いるものだ。一人の存在を発見すると、世界の友まで田舎でも文化施設がつながることもあるからだ。以前にも述べたが「ここにもある企画、ここにしかない企画」の両輪が生きてくるのだ。
 注意しなければいけないことは、地元で教室などを持っている事業には触れないこと、地域で邑をつくっているボスではないひとの参加が大切だ、ということだった。しかし依頼者が私にサポートを期待した多くは、一流人への人脈づくりであり、国内外の一流団体やソリストやTV番組などが少しでも安く誘致できる手だてだった。買い物による鑑賞企画は、世界の超一流団体でも資金があれば何時でも何処でも誰でも叶う話なので、文化の種蒔き企画を拡げる事業とのミゾは大きかったように感じた。
 私が最初に市民文化会館の文化事業を仕事としてご紹介していただいた時も、最大の願望はクラシック音楽の充実にあったようだが、その基礎を市民と共に築き、文化的な自立から世界の異なる文化の価値観と交流する、というアイディアには失望させてしまったひともいたようだった。

読み聞かせ

 「読み聞かせ」という言葉は日常的に誰もが使っている。読み聞かせる、読み聞かせてやる、という凄い言葉に誰も疑わない。公民館活動や学校でも展開されていて既に市民権を得ている。どうして「朗読」、または「朗読プレゼント」とか「朗読交流」ではいけないのだろうか? ステージに立ったような錯覚がそういう言葉を生むのだろうが、でもその一番上手いスターはそれぞれ子どものお母さんだったりしているのだ。

 もう一つ、文化会館が主要文化事業企画の一つに挙げている「アウトリーチ」というのがある。これも芸術が素晴らしいので普段触れることのできない人びとに出向いて行って見聞させる事業だ。上から目線の言葉はもう要らないのではないか? と提言を文化会館にしたことがある。簡単な話し「出前公演」であり、文化会館を神社にしたら、参拝できない人向けに「お御輿興行」する企画になっている。それが文化会館の宣伝も兼ねるなら「キャラバン隊」にもなるが、出前が美味ければ本店に食べに行かなくても済む話になる。ともかく偉そうな言葉でなく、重要な企画だと思うなら文化会館のステージと同じ品質が伝わる「スペシャル公演(○○編)」の方が立派だと思う。

波瀬満子

 波瀬満子(はせ みつこ)を知るひとは少ないかもしれない。亡くなって十年程になるだろう。実力も人気もあった奇人・変人の天才だった。文化芸術や芸能界には、中身が無いのに目立ちたがりの芸人が多いのだが、波瀬さんはお笑い芸人でもないのにステージに立った瞬間、どこか可笑しいし怪しく、瞬時に観客の目を集めさせ「ことばあそび」の世界に誘ってくれるのだ。とにかくボディランゲージを加え「あ・い・う・え・お」(拙作の音楽で)と踊り出すかと思うと、ことばあそびによる早口言葉や朗読劇 、一人芝居で詩の世界を展開させていくのだった。

 もう45年も前に現代音楽のイベントのステージで、私が乱数表を無表情に淡々と読み上げている隣で、天気予報を様々な感情を込めて表現していた・・・悲しそうに泣きながら読んでいるかと思うと、突然笑いながら、怒りながら、また歌舞伎調のように、時にはひとをバカにしながら、読み上げていくのだった・・・
 ヘンな女優と出会って以来、沢山の仕事をご一緒させていただいたが、このような天才女優は他の追従を許さない国宝のようなアーティストだった。

 半世紀前に、詩人の谷川俊太郎さんと「ことばあそびの会」をつくり、たくさんの書籍やステージ、録音・録画のお仕事をしていらした。時には人形と共に「あらま先生」となり全国を回り、晩年は NHK・Eテレでことばあそびの番組に出演されていた。とにかく企画からも TVの画面のワクからもハミ出る活躍に、子どもから大人までビックリしながらも楽しませていただいたようだった。

 キングレコードの「ことばとあそぼう」シリーズも私が音楽を担当させていただいて凄かったが、ブリタニカ版の同名のそれは最高傑作だと思っている。しかしもう手に入らないが、持っている人は「お宝鑑定団」行きだとも思っている。

悪党団員の家族

 映画などで見られる、悪党組織に立ち向かうヒーロー物語に登場する悪党団の団員それぞれの家族はどうなっているのか、どの物語でもズ〜と疑問に思って見ていた。
 何百人も制服を着た、主に男たちが黙々と一糸乱れずボスのために働きヒーローにやられて死んでいく・・・どうやって組織に加わったか、給料や契約はどうなっているのか、賃金を貰ったら何時何処で何に使っているのか、各種保険や保証は護られているのか、恋人や家族がいないはずはないのだが、すると秘密は漏れないのか、脱走するヤツはいないのか・・・しかし大体がそんなことを考えるヒマも無く殺されていく。殺されなくて怪我をした人たちは何処の病院に収容されるのか、その後のリハビリはどうなっているのか・・・考えたら切りが無いほど興味は尽きない。
 日本のチャンバラ映画でもそうだ。切られたらピクリともしないで死んでいくが、そう簡単に絶命できるはずはないと思っていた。切られた人の葬儀やお墓はどうなったのか、残された関係者・家族はどうしたのか知りたかった。切られた人にも小説一冊分の人生があったろうが、そこに光をあてた物語はそうないものだ・・・
 など考えて映画を見るヤツはいないかもしれない。でも子どもの頃からそこを知りたくていたが、悪党団員の日常はいまだに私には理解できていない。

コミュニティ ミュージック

  99年秋に「コミュニティ ミュージックをつくる」という拙著(音楽之友社刊)を発売していただいた。メイン タイトルは「文化会館の聖母<マドンナ>たち」で、文化会館を基軸に市民文化の創造的な活動の発信記録を本にしたものでした。その真の狙いは市民自らが音楽創造・表現・評価ができて、文化の自給自足から様々な価値観の認識・交流が叶うことの意味と手だてにありました。

 一流の芸術を鑑賞することは素晴らしいことです。人の価値観は様々だから一概には言えませんが、消費としての文化と、創造の文化、保護・育成する文化は同等で、それらの結びつきの手だてを持っているのが文化施設でなければならないと思っていました。

 全国には地元市民の創造的な活動を当然の様に育成しながら、世界の一流芸術に触れる機会を確保している文化施設が多くなってきました。芸術も元はコミュニケーションで、コミュニティ ミュージックの育成が根源になければならないのだと思っています。その実践と成果は少しでも仲間と築き上げて来ましたが、当時は殆どの音楽関係者・文化施設の人びとは何のことか全く理解出来ていなかったようでした。これからはそれが当然核になると私は思っています。

文化会館の波動④

  文化事業のコンセプトは「魔法の学校」

 全国の公立文化施設の旗館といわれている「東京文化会館」とは御縁が続いている。90年代に館長だった作曲家の故・三善 晃先生と文化事業の市民文化育成を協創させていただいた。そして今も外部評価委員として意見交換をさせていただいている。それは上から目線で助言する役ではなく、唯々文化会館の事業の理想郷を感嘆させていただくために参加しているようなものだ。
 都から文化事業の助成を全く受けていないのに、質も量も他館の水準を超えている。貸し館事業も兼ねながら自主事業の数も多い。オペラなどのオリジナル作品の制作・上演までこなしている。人気アーティストのファンで満席な企画だけでなくホールの事業そのものにファンがついている。最先端の社会包摂企画や育成プログラムの充実は世界に通用している。音楽家から企業までのマッチングが優れていて、管理運営を含め絶えず創造的な展開の数字を上げている。これらは会館の個々の優秀さとチームプレーの優れた成果だと思われる。文化会館の理想に触れて見たいひとは、会館が最近まとめたそれらの冊子をご覧いただくと感動が伝わっていくと思われる。
 これらは私が理想としてきた世界を具現化していただいたようで、本当に嬉しくなってしまう。私には至らなかった事業もあったが、私が展開させていた事業コンセプトは、90年代の中頃から埼玉県の越谷市のホールで展開させていた「魔法の学校」にあった・・・子どものなかに本来持っている“魔法”を見つけて自ら育てる。大人は技術を教えるのではなく、必要最小限のサポートが出来るように寄り添っている。大人のサポーターは多種多様なプロがあたり、その実力は後に東京大学教授になったり、世界に羽ばたくアーティストだったりした。ここでは”ダメ”なことはなく、子どもたち自身が“カリキュラム”も考えてつくっていった。そう、楽器をつくるスペースから生まれたものが、世界の一流を理解して異なった価値観との交流につながって行ったのだった。地域文化振興とはそこが原点なように思えたのだ。町の魔法使いから、どのくらいの次世代の魔法使いが生まれ育ったか、その成果が問題ではなく、コンセプトが生き続けていることが面白いと私は思っている。

文化会館の波動③

 これまで私は全国で多数の公立文化施設に伺ってきた。視察や支援名目が主だったが、日本には文化施設とともにある素晴らしい文化都市の多さに勉強させられた。支援・助言が必要で招かれる施設は、問題があるから、困っているから呼ばれるのだが、既にある自慢すべき地域の文化財を再考すると、どの町も輝くようなプログラムが創出されていった。そう、助成金が乏しい、町の予算が縮小された、人材不足といっても、文化会館職員だけでなく町の人びとの文化的なパワーが強いところは町が輝いているのです。

 少し前までは「プロモート」が多かったようだ。プログラム例をカタログで見て電話で注文し、後はチケットを売る仕事だ。資金さえあれば誰でも出来る仕事だった。今は文化会館のオリジナル・プログラムや地元の市民文化育成、多種多様な文化交流事業と拡がっていった。プロの音楽団体まで育っているところや施設外の事業も盛んなプログラムで活気があり成果を上げている町が多くなったのは事実だろう。

 税収が少なくなった?助成金がカットされた?人員整理されていく?新型コロナの災害に勝てるのは、文化会館が市民と財産を築いてきたかどうか、有名タレントの招聘プログラムだけでない市民との文化的体力が付いたかどうかにかかっているようだ。しかし首長の一言で変わってしまう文化都市もあることは事実だ。私も文化会館の職員と一緒になって、これなら市民の賛同を得て拡がって行く!と思った矢先に「今年度一杯で閉館!」という宣言を受けたこともあった。私の力量不足とそこに至るまでの自然な住民の文化パワーが集約出来てなかったことがあって、もったいなかった事例の一つだろう。

 自給自足に町のパワーがないと、外からの買い物文化は「文化の消費」になってしまうことが多い。どんな貧弱な種でも「創造としての文化」を持っていないと海外とも互角の文化交流は出来ていないことになると私は思っている。

 

文化会館の波動②

 私が文化会館の芸術監督を引き受けさせていただいた頃、「コミュニティー・ミュージックをつくる」という本を出し、企画を実践していた。音楽はプロが聴かせて、聴衆は聴くだけのものではなく、市井の誰にでも個人のオリジナルな音楽を持っていて、それと優れた文化芸術が解け合って人びとは感動するという音楽の基本の話しを提示しただけである。

 もちろん創造的な技術は持っていないことが多い。表現だって上手くない。しかし人びとと技術を超えてつくり合えることが、音楽を理解し、愛し合える原点になる。だから簡単なルールや手だてで「つくってみよう」という能動性が大切だ、という内容だった。それが「音楽づくり」という活動が学校だけでなく、町の何処でもできる活動として考えていたのである。

 文化会館に資金や人が不足しだした今、再度自分たちの「音楽(文化)づくり」が必要とされている。 P ACシステムデアル。三位一体の、三人寄れば文殊の知恵の、文化芸術の創造エネルギーの源というアイディアである。

  Pは文化施設のプロデューサー(本企画の担当者でいい)。 Aはアーティスト(一流の音楽家・音楽教育者などの専門家)。 Cは(市民のなかの文化人、カルチャーの仮称)。 Cは複数で固定しないで、例えばプログラムごとに交代する、などのルールが必要。 Aはオーケストラのトップ演奏家や学校と社会の音楽教育に精通したひと)。これらの人びとの有機的な結びつきで、地元の文化芸術財産と世界の一流人と何が出来て、どう拡がって行くか智恵を出し合うことから始める。

 種蒔きなら、東京のオーケストラ団体が全員で来られなくても、少ない経費で町のなかで、文化施設で、何が出来て生まれてつながるか、そこから始めることができるだろう。文化芸術は「鑑賞」が先ずあるのではなく、コミュニケーションがあって、何かをつくるところから始まるからである。

 次世代の技術向上を願うだけではなく、自力で文化芸術の様ざまなふれ合い方から「ここにしかない」自力を培うことが大切だと思われる。

 

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