坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

13ページ目 (16ページ中)

楽器開発①

 いい音、面白い音、新しい音は必ずしも一致していない。しかし新しい電子楽器をつくるには、それらの課題をクリアさせる必要がある。
 電子キーボードは電子回路を使ったシンセサイズ(合成音)で出来ている。その回路づくりに各社の秘密がある。既成の電子オルガンもシンセサイザーと同じで、常に新しい素材の組み合わせで音が生み出されている。

 試作段階では必ず一つの音が「何故いい音ではないのだ」、という議論が技術者どうしで問題にされる。既成のアナログ楽器に似ていれば「いい音」だとも言える。しかしアナログ楽器にない、いい音の判定は難しい。既成楽器にない音だから面白い合成音としてユーザーに支持されることもある。楽音に無い変わった音は人の感性に支持されるか微妙な問題が残る。

 【サンプリング】という技術がある。ピアノやヴァイオリンの名器の音を記録し、鍵盤上に再構築する術だ。それは名器と区別が付かないほど優れた音に再生可能だ。そこに個性や新しさが何処まであるかは別問題だ。
 友人にオナラをサンプリングした人がいた。それでベートーヴェンの「運命」や「ぞうさん」を弾くと、それはそれで面白いが、その面白さは何にでも使えるかというと難しい問題になる。新しい音といっても、楽曲とのマッチングで生かされないと使われないことになる。

 楽音の原理は、純音・平形・矩形・鋸歯状波などの組み合わせだが、その塩梅具合なども製品の個性になる。新しくていい音の創造は簡単ではない。それぞれの波形を持った音が同時に響き合う組み合わせは、オーケストラやパイプオルガンと同じで、それらの波動がシンセサイズされた世界に人びとを誘わせてくれることになる。

フラッシュモブ

 音楽がメインのイベントに絞っての話題・・・もう十数年前から町なかで突然音楽の演奏に出逢う機会が生まれた。公共の広場で、大通りで、アーケードで、一人が音を出すと次第に人びとが楽器を持って集まり音楽が始まり、例えばラストは合唱も加わってベートーヴェンの「第九」になる、というイベントだ。

 ここには重要な二つの異なる世界がある。
 一つは、音楽の始原の素晴らしさだ。一人の行為が人びとの共感を呼び、多くの人びとと輪をつくり一体化し、世界を共有する。何と素晴らしいことか。
 もう一つは、「第九」を例にとってもいいが、指揮者が出て来て広場がステージになってしまう「企画」(事業)。結局は演じる側と聴く側を分けて、誰かが音頭をとってまとめたことになる。アンサンブルは聴き合い、息を合わせて表現するものだが、結局はステージの野外版で、意外性や出前のサービスを除くと、二回目からは驚きもなく、広場の人びとはイベント自体の賛否に分かれるかもしれない。

 1970年前後は、前衛音楽の宝庫だったと思われる。偶然性や音楽の限界を問いながら表現していた人びとが多かった・・・70年、私たちの仲間は学生食堂に散らばって座り、時間と共に自分たちで決めたリズムや音程で一つのフレーズを繰り返しながらアンサンブル。そして規定時間を使い果たすと退席する、という音楽を発表した。人数は十人ほどで、楽器は固めの「センベイ」で演奏(かじる)・・・其処彼処で「パリッ」「カキッ」。そのうちに食堂中がバリバリ、ボリボリ、パリパリ。騒音に聞こえた人びとと、センベイの強烈なニオイで、食堂のおばさんたちに追い出されたが、参加者と一部の聴いた人は満足感で満腹になった。

大気を切り取る

 大自然は超低音から超高音までの組み合わせによるシンフォニーが既に鳴っている。時と場所や大気の環境・条件によって瞬時に変わって響かせているが、基本的には海底から高空まで揺らぎながらも音に埋まった壁のようなクラスター(房)に包まれ響かせているのだ。

 宇宙の場面の映像を効果音で聞かされることがある。ピュンピュン飛び交う音や、キィウ〜インとした高音が多いが、みんなウソである。空気の無いところでは音波は伝わらないからだ。無音ということだ。

 作曲という行為は、その大気の一部を切り取って人びとと共有することである。基はゆったりとした大気のながれのなかの音と触れることだが、それを瞬時に選び、選んだ人が音を組み合わせることにより、我々の耳に聴けるようにしていることをいう。だから切り取り組み合わせた人が、再度大気に呼び掛けると、一人の声でも、楽器でも、百人から千人の交響楽団の楽曲でも、自然のなかに解き放たれて一体化した瞬間を味わうことができるのだ。ここでは原理を言っているのであって、質の善し悪しやオリジナルを問うているわけではない。ロックバンドの音楽やオルガンなどの器楽曲、合唱から民族音楽など、人びとの好みや包まれ方は様ざまだが、人それぞれの自然との一体感の基は同じで、人びとは大気の揺らぎのなかで至福を感じるのである。

 拙作の混声合唱曲に、団員が三々五々ステージに集まって来て「大気のヘソを押す」行為から、それに短音の声を加え、次第に音が混じり合ってシンフォニーをつくっていく音楽があった。それは名演で、私は感激したが、誰もいいとは言わなかった。もう再演されることは無いだろうが、私は自然の中で常に自在な響きが生み出されているのを聴いている。

「百姓っぺ」の文化芸術

 「百姓っぺ(ひゃくしょうっぺ)」とさげすまされることが、子どもの頃イヤだった。確かに酪農家のように、牛や鶏から、穀物、野菜と、自給自足に加え生産物を売って生活していた。だから私は子ども時代から農家の手伝いは何でもしていた。土を耕し、タネを蒔き、自然や動植物の畏れや感謝と共に暮らしていた。
 経理の専門家で公務員夫婦が戦後、土も触ったことが無いのに突然原野を開拓して百姓になった。しかし地元の子どもと何としても仲良くなれず、からかわれることが苦痛だった。ホワイトカラーの家族にあこがれていた。

 音楽を突然始めた。それも「つくる」ことを選んだ。その後音楽のプロデュースや文化事業の仕事にも従事させていただいて、みんなでつくることも実行して来た。世界の文化財、一流芸術や優れた人びとの智恵に少しでも触れることは素晴らしいことだと思っているが、基本は自分たちでタネを蒔き、育て、その価値観と他の異なる価値観の交換から全ては始まる、ということではないかと思ってきた。でもその「耕すこと」ってカルチャーの基本ですよね。ということは、私は本格的な百姓をず〜ッと続けてきたということになる。

 ドン百姓、という言葉もある。江戸時代ではないのだ。今ではドンと太鼓で打ち上げて貰えるような最高の褒め言葉のように思えるのだ。故に私は「百姓ッペ」と呼ばれた方が晴れがましく自然なような気がしている。

Simple is the best

 ベートーヴェンの「第九」。一楽章から三楽章まで優れた音楽が展開していく。そして第四楽章で、それまでの音楽を否定して「この音楽がいい」と低弦(コントラバス)で歌い始め、全奏者で謳歌し、それをソロと合唱で拡げて行く。
実にシンプルなメロディーで、誰もが一度で覚えて歌えるメロディーである。

「上を向いて歩こう」という歌が全米でも大ヒットしたことがあり、現代でも名曲として多くの人びとに歌い継がれている。ジャズをピアノで弾いても凄腕の作曲家・故中村八大氏の作曲だったが、何てシンプルなメロディーだろう。初めて聴いた時、私は何故か生意気にも「やられた」と思った。

 最近のポップスで複雑に聞こえる歌でも、実にシンプルなフレーズの繰り返しをしている歌が多い。そのシンプルな素材は、しかしどれも同じでなく差異性があるから新しい世界を聴かせて貰うことができる。その新しさをシンプルに受け止めて人びとは歌いつないで行く。

 シンプルな素材は可能性をふくらませて幾らでも複雑にすることはできるが、複雑な素材はシンプルにすることは難しい。
 古今東西のクラシックの名曲の多くは、シンプルなテーマの組み立てが多い。民族音楽でも同じようなことが言える。
  Simple is the best だと思う。

宇宙からの電子音楽

 「コスモス200」という電子音楽を創ったことがあった。それはNHKの放送技術と野辺山電波観測所のご協力で、 84年に NHKで製作し放送初演された。
 
 音源はホワイトノイズを切り貼りして組み合わせだけでした。シンセサイザーの鍵盤で創った音とはかなり違っている。音楽の内容は、星空を夕方から翌日の明け方までの12時間に固定した窓枠から見える星たちをそのママ音で一つ一つ再現し、満天の星が輝いた世界を表現したものでした。
 星には地球からの距離や星自体の温度などそれぞれに個性があり、その星たちのデータを数値化した資料から蘇らせたものでした。
 各星は自転で発するパルサーが異なり、近くの星は ブルルルル、とオートバイのような音になり、遠くの星はチコン チコン と間遠になり、様々な音が響き合っていました。

 80年代の後半から十年程、小学1年生の音楽の教科書(教育芸術社)に「星の音楽を聴いてみよう」という副教材として載っていました。それを教室でレコード鑑賞された子どもさんも極少ないけどいたはずです。もう社会に出て中堅の輝かしいお仕事をされている歳でしょう。その音楽を覚えていたら、その時の感想を聞いてみたいものです。

 原盤は NHKで、その保管はレコード会社に依頼しましたが、その後行方不明になってしまい、現在では幻の音源と言われています。唯一教科書に準拠したハイライト版の原盤が残っていて、それで原作の壮大な星たちの歌声の一部をかろうじて聴くことができるのです。

宮本む○し

  JR西明石駅の商店街に「宮本む○し」という定食屋さんがあります。初めての町を何の目的も無くフラリと降りて出逢ったお店です。そして名前を見た瞬間に「面白い」という思いと「宮本武蔵」というイメージが同時に重なりました。しかし自宅に帰ってきて、宮本むさしではなく、何だったか思い出せなくなりました。すると、む○しの○に様々な文字が浮かんできて・・・むいし、むかし、むりし、むなし〜・・・「拙者、宮本むこしである」という映画のシーンを想い浮かべるとヘンだし、「宮本むごし」となると意味が変わってくる、など文字の組み替えを暫し楽しみました。そのうちに「宮本○さし」だったか記憶が怪しくなってきました。宮本くさし、ではなかったようだし、など連想は続いていきました。

 そういえば「佐々木小次郎」を「ささき しょうじろう」と読んだひとがいました。剣豪「こじろう」とは随分イメージが違って、昔の近所のおじさんを思い出す名前になったようでした。
 (文中の例に正解があります)

東京文化会館チャンネル

 「東京文化会館チャンネル」という Youtubeがある。そこでは東京文化会館の建物の紹介から舞台の表裏、制作プログラムの数々が紹介されている。

   東京文化会館 YouTubeチャンネル
   東京文化会館 ウェブサイト


 鑑賞番組だけでなく、会館の自主創造企画、コンクールで受賞された若い人びとの意欲的な演奏、子どもから老人までの社会包摂企画、市民文化育成企画・市民参加企画、美術館など他の文化施設との提携企画と、音楽ホールが展開可能な全ての活躍内容の動画配信です。どれも素晴らしいプログラムです。文化事業だけでなく、文化芸術全てに対する「革命」が起きたと私は思っています。
 私が現在「外部評価委員」を引き受けているから、助言など少しは役立ったというレヴェルではありません。会館諸氏の総力を挙げた智恵と努力の賜物だと思われるのです。

 私自身が文化ホールの文化事業に携わらせていただいた経験から、文化事業の相談や助言を希望される全国の文化施設に届けてきました。講演もさせていただきました。時として、例えば“アウトリーチ事業”など批判もさせていただいた。それらの話題には文化会館がどうあって欲しいか、という明確なヴィジョンがあるからお手伝いさせていただいてきたわけです。そのヴィジョンがここに結実されている。だから情報の欲しいひとはこのチャンネルを見ればいいわけです。そして質問があれば直接東京文化会館を訪ねればいいことになります。  
 私が文化施設の事業に対して意見を申し上げる役割でも時代でもなくなったなァ、とも思っています。

コミュニケーター

 コミュニケーターとは人びととコミュニケーションをするリーダーのことで、地域の文化施設の文化事業と町の人びととを結びつける役のひとのことを言います。企業の活動ではなく、文化事業の市民リーダーという意味の造語です。

 この原型は96年ごろから越谷サンシティホールで展開された、市民のリーダーによる「歌のおねえさん・おかあさん」の活動にあります。歌うおねえさんではありません。歌い合うことで市民同士がいろいろな時や場所でコミュニケーションを生み出し、人びとや情報の交流が狙いなのです。ですから動く“リサイタル・スペース”ではありません。集う人びとが楽しく歌える環境をつくり、異なる価値観を認めて、ひと時歌い合える「ひろば」を大切にする、という企画なのです。要は歌わせることの方が大切なのです。そしてコミュニケーターとはその名称なのです。これは十年程前に多可町のヴェルディー・ホールの活動で実際に使った言葉です。

 ところが現実には、どんなに説明しても、 実践を体験してもらっても、モデルケースをつくっても、狙いに合ったところを褒めても、全然趣旨が伝わらないことには参りました。自分が輝くことが一番になってしまうのです。集まった人びとを輝かせる手だてが言われても思いつかない、という現実があったようです。
 音楽の師弟の育成は、より高度な技術を身に付け、より広く高いところで、より輝く訓練を受けさせることも大切で、そこから抜け出せない現実があったようです。構造的はそこが問題なのでしょう。歌うことで、いや楽器をもっても参加する人びとが輝くという時代のコミュニケーターが今一番望まれているのだと思われます。

協創時代 ②

 日本で最も古く、国際的につながりのあるクラシック系の作曲家団体「日本現代音楽協会(略称:現音)」の会長職を、08年から5期お引き受けしたことがあった。歴代の会長(旧称:委員長)とは異色な理事(旧称:委員)であった。それは作曲家としての実績よりプロデューサーとしての活動が多かったからだ。しかし立候補制ではないのに多数の理事が推薦してくださった理由は、91年に現音創立60周年記念「東京現代音楽祭」のプロデューサー兼大会事務局長を引き受け、作曲家の活動領域を拡大させたからだろう。当時の大会会長の故・三善 晃先生は大会の副題に「おててつないで花いちもんめ」とあそび言葉を加えて下さった。要は子どもから大人まで、音楽のジャンルも超え、世界の友と交流するコンセプトだったのだ。それは「協創」の原型であり、新たな時代の創造に会員諸氏の支持をいただいたのかもしれない。

 作曲家は個人営業で、自作の力で多くの人びとと結び合っていることは今も昔も変わりはないのだ。その団体が作曲を通して世界と文化交流することは当然で、01年には「ISCM世界音楽の日々 横浜大会」が開催された。しかし現代では、それに加えてプロの音楽家(作曲家)が社会の人びとや次世代の子どもたちや、特に社会的な弱者にどうサポートするか問われていて、その活動も大切なのだ。個人だけでなく、団体としての使命が求められているはずなのだ。そこで90年以降の活動を充実すべく、日本でも初めての「音楽教育プログラム」をもつ活動チームを01年以降立ち上げ、学校や社会で活動を開始してきたのである。学校の子どもたちや市民との「協創」が展開していく時代が生まれたのだと思った。

«過去の 投稿 新しい 投稿 »