歌声が美しいひとは、数億円の財産を持っているに等しい。ヴァイオリン一丁が数億円するのに、自分の体の一部が楽器になっている、というだけでも素晴らしいのに・・・
その声の集団、合唱に魅力は誰でも体験ができる音楽宇宙だ。管弦楽、吹奏楽も同じだが、声だけでハルモニアに浸れるのは、素晴らしいことに誰も異論を唱えない。
合唱の全国コンクールの審査員を受けたことがある。どの団体も優劣がつかない程の素晴らしさがあった。
後日、主催連盟の雑誌担当者から対談のお誘いをいただいた。「みなさん褒めちぎる話ばかりなので、悪いところを指摘してください」という依頼趣旨だった。調子に乗って問題を指摘した。それはコンクール批判とも共通した。つまり「誰(何処より)も、私たちが優れて、美しいでしょう」という評価は大切だが、それより地域文化振興の大きな役割が一杯ある」という問題指摘だった。美人コンテストや、有名コンクールでの勝ち抜きが大いなる評価を下し、その積み重ねが多くのファンや音楽的な財産を生み出していく、ということは方法論の一つだし、価値観を高める指標にもなっているし、悪いことでは無いが「誰よりも綺麗?!」という評価よりも、音楽の持っている力と自分たちの努力している力を合わせて、社会貢献することに意義があるのではないか? という提言がいいと思っての発言だった。悪口だけが助長され、地域文化振興の大切さまでは伝わらなかった。女声団体など、地元での国際交流など、歌や音楽の創造的活動で、幾らでも多くの人びとと共に成果を上げられるはずだと思っていた・・・その後コンクールとは合唱に限らず縁遠くなってしまった。
有名コンクール出身の音楽活動だけでなく、音楽の持つ力を様ざまな活動にして成果を上げている人びとの実績、その凡例などの広報がこれからの社会に必要とされていると思われます。