坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

Katsuhiro Tsubonou Official Website. Act 2001~

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簡単なことが出来ない音楽家

 音楽でも情報・知識を持たないと、主に音楽をつくってみんなで楽しむことは難しいものです。そのため音楽がどうつくられているか、勉強・レッスンでなく、遊びながらでも知識から真似て自分たちでもつくってみるキッカケになることが第一歩なのです。
 その情報源は、民族音楽にもクラシック音楽の名曲にもたくさんあるのですが、それを多くの音楽家は子どもたちに伝えることが出来ないでいます。
そのヒントを幾ら私たちが助言しても聞く耳を持つ人は少なかったようです。故に子どもの生み出す音を聴けなかったようです。子どもが遊んでいる音楽のなかに音楽宝物が詰まっていたのですが・・・
遊びながらも子どもたちが生み出す音の群れを、音楽家が褒めてまとめるのではなく、参会者が気に入る表現になるまで「待つ」ことが大切だったのです。しかし、待てずにバチの持ち方、音の出し方など、レッスン・レクチャーに向かう音楽家が多かったようです。

 音楽の勉強は、優れた技術を身につけて、出来るだけいい環境でその表現を褒めてもらうことが主になっています。他人より優れた表彰(コンクール)が大切でいます。自分の優れたところを社会で役立たせる術を持たせる講座が殆どないことが音楽系の大学の足腰を弱くさせている基になっています。簡単なようですが、これは構造的な欠陥で、ステージの上からの提供に強く、広場の音楽からはつくることが出来にくいということです。音楽の技術を持った人びとが文化芸術を愛し、理解して次の世代に育てて行くということは、簡単なようで難しいことだと思っていますが、その壁を乗り越えられないでいた人にも責任はあると思われました。

文化会館の役割

 私が文化会館の事業に従事させて頂け、全国の文化施設の助言などをさせて頂けた基は、クラシック音楽の普及にあったようです。バレエ、オペラも加え、なかなか大都市の施設に距離や時間、お金も掛かる演目は、文化施設の誰かが強力に働き掛けない限り鑑賞出来づらい企画だからです。誰もが気軽に鑑賞できる方法や出演者へのアプローチが出来る術を持ったひとが欲しかったようでした。
 しかしそれは資金があれば、電話一本かければ何処でも誰でも実現可能な仕事なのです。演奏会チケットを売り捌くことに苦労する話では無いのです。

 都道府県が参画する施設は、資金の額も違うので、オーケストラや子どもの団体の育成まで拡げているところもあります。しかし小都市では予算も人材も不足していて、地元の文化を育成するところまで手が届かないのが現状です。
 文化施設は教育機関ではありません。しかし学校で学んだ文化芸術は、社会でも継続して拡げていくことが、町の文化的な財産を大きく産み育てて行くのだと思っています。
 どんな町でも人財は隠れていても豊富なのです。文化施設はその人びととの発掘・交流が基礎になるはずなのですが、幾ら説明して、実践例を上げても、分かるひと、少しでも地場産業から何かを生み出そうと考えるひとが殆どいなかったことが私には驚きでした。
 公立の文化施設は、特定の人びとによる邑社会の交流場所ではありません。地域文化の揺籠として自在な展開が大切なのですが、残念ながら実現例が少なかったようです。そこをやり残していますが、私が考え実践してきた文化施設のコンセプトは間違っていなかったと思っています。

現代音楽の即興

 音楽の醍醐味と無常の新世界は「即興」にあります。
 即興はデタラメではありません。ルールにのっとった表現で、音楽の様ざまな表現を可能にさせています。民族音楽にもあるし、クラシック音楽にはその時代の名手(作曲家やピアニスト)が表現して時代を創ってきていますが、楽譜の残されているものはごく僅かですから実態がなかなか分からないかも知れません。そして何といってもジャズが凄いし、今でも音楽が一番生かされているのはそのジャンルかも知れません。
 ’60年代に現代音楽でも、即興演奏団体があった。東京芸大の楽理科出身の作曲家・演奏家が集まって演奏した「グループ音楽」がそれでした。「現代音楽でも即興があるんだ」と私は大いに影響を受けました。
 
 ’70年に拙作「クリエーション」シリーズを発表しました。ほとんどルールを記した楽譜であり、即興が柱になっていました。
 トロンボーン・アンサンブルの「第一番」は、一つのフレーズを、相手や仲間が真似する、反抗する、対話し合う、等の連続で音楽が進んで行きました。それは鳥獣戯画のような音で面白いし、演奏家の個性が表に出ていて、音の海で聞き手は楽しく揺られる面白さがあしました。しかし私と演奏をした仲間以外、誰もいいとは言いませんでした。

 もっと即興表現が広がるように、と図形や注釈表を増やして、他のアンサンブルや合唱にも拡げたが、発展はしませんでした。その原点を大切にした段階で、本当は作曲家として失敗の道を歩み始めたのかも知れないと思っています。

訃報の数々

 昨年から現在まで、多数の著名な人びととお別れしてきました。新聞の記事やテレビで訃報を伝えられた先輩(先生)、同輩、後輩諸氏です。記事は著名な人びとが寄稿されているので、私が記すことは無いでしょう。教えていただいたことや、一緒に仕事をさせていただいと重みが心の底に残っていて決して消えないでいます。
 痛手の一つは、私の一番優れているところを褒めてくださり、それが音楽や文化事業で生かす力になっていた証言の多くが、失われたことでした。亡くなられてから「〇〇先生が私をこう評価して下さっていた」と言っても証拠は無いし、故人を利用した売名行為のように思われるかも知れないので、全て封印しなければならなくなってしまいました。
 唯一の証拠は、拙作の著書に寄稿して下さった故・三善 晃先生の私への文書だけが残っています。

 ひとりの人の生きる道には、天国からそのひとを含む望ましい世界の実現に天使を送り込んでくれている、と記された本を幾つか読んだことがあった。しかし自分の至らなさから無駄にしてしまったことの方が多かったようです。
 そこへこの7月に義弟を亡くしました。長生きをすることは、沢山の人びととの出会いと別れがあるということですが、見送ることは何時も辛いものがあります。

残酷暑お見舞い申し上げます

 連日、猛暑・酷暑が続いています。この暑さ、私も頭では理解していても、身体が拒否反応を示していて嫌がっているのが現状です。生命に関わる暑さだそうです。「逃げないでこの暑さに立ち向かう!」なんて考えないで、暑さを凌ぐ術を優先して、逃げるが勝ちだと思っています。

 久しぶりに本欄を更新させていただきます。ブログも時代を通したその人へのニーズなどによって価値はあるでしょう。タイムリーで無い内容は意味が乏しいことでしょう。ですから他人事では無い、私の作曲や文化事業などについて、私なりの総括を数回に分けて記してみたいと思っています。自慢話ではありません。むしろ失敗したことの分析になりますが、自虐ネタではありません。失敗は成功の基であるかも知れませんので、その事実をできるだけ客観的に記してみたいと思っています。誰かの何かの役に立つかも知れませんから・・・

東京タワー文化フェスティバル開幕

演奏会が二つ開催されます。
1月19日(日)に東京タワー、28日(日)に紀尾井ホールです。
橘プロデューサーの企画・制作・構成・演出をお手伝いする役ですが、今回は名前だけの音楽監督だけでなく「絆の章」という邦楽作品を、東京タワーの日のみ演奏していただきます。 2003年に作曲して06年に日本現代音楽協会主催の演奏会で初演していただいた作品の再演です。篠笛と尺八のための小品です。

 曲は全編「コール&レスポンス」で出来ています・・・親が子を呼び合う、ひとと自然が交流する、魂の呼びかけ合いなど、一つの呼びかけで絆が結ばれ、拡がっていく世界が展開されています。文化フェスティバルのコンセプトに通じる作品でもあるように思いましたので参加させていただきました。

もう一つ、私の亡くなられた恩師「樋口 昭」先生(埼玉大学名誉教授)の“追悼演奏”の意味も含まれています。
樋口先生は、私が二十歳の時突然「作曲家になる!」と宣言した時、僅か十ヶ月でイロハのイから音大に入り、プロの作曲家に必要な基礎を教えて下さった恩人でした。
数年前、孤独死されました。変わった先生でしたから亡くなられても私に伝わってくる情報は無く、随分後に私も知ることになりました。しかし誰がどのような御供養をされたか分かりませんでした。私は作曲家として活動している細かい報告やお礼もキチンとしないママでしたから、途方に暮れてしまいました。

令和6年12月7日(土)午後、成田山新勝寺(成田市)で故・樋口 昭先生のご供養をさせていただきました。そしてこの19日に追悼演奏をさせていただくことにいたしました。

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謹賀新年

 明けましておめでとうございます

 本ページをお尋ねくださった人びとに感謝致しますと共に、今年もご多幸をお祈りのり申し上げます。
 1月より拙作に関する演奏会も用意していただきました。良いニュースがたくさんお届けできることを願っています。

残酷暑お見舞い

 暦の上では「立秋」を過ぎました。しかしこの暑さ。猛暑を超え、酷暑を超え、今年は本ページを訪問くださったみなさまに「残酷暑お見舞い」を申し上げます。そしてご自愛願います。

 作曲家 作曲しなけりゃ ただの馬鹿 ・・・だそうです
 社会からの需要が無くても、自分の内的な要求からか、ただの馬鹿で無い方がいいと思ってか、連日暑くても作曲し続けています。作曲している時が一番幸せなように感じます。

 「後期高齢者」という区分けだか差別だか分からない、有り難くも失礼な言葉があります。私なりの解釈では、還暦を過ぎたら、定年退職したら「第二青春期」、75才を超えたら「第三青春期」だと思っています。残念ながら肉体は衰えて行きますが、精神が萎えているわけではありません。これまでとは異なる青春時代をみなさまも謳歌願います。

 音楽活動でも、一般の生活でも、この第三期が重要で大変です。音楽でもテーマがあり、その「展開部」があり、そして「コーダ(終結部)」があります。名曲のコーダだけ調べても面白い出会いがあります。意外な展開もあり、意思とは異なる環境に身を置くこともあるでしょう。過去の話題ではなく、新たに自分で創れるところまで努力して、何かを生み出して行きたいと思っています。

みんなが主役の歌符

主役が最初から最後まで輝く作品例が多い。トップメロディーを任される人のいる団体が成功すると思われている。
児童合唱団を引受けた時、一番可愛く見える旧来の少女雑誌の表紙のようなデモを撮影してきて「この子から売り出したい」と提案してきたのには驚かされた。合唱はいろいろな声が生かされて団体の個性が出るのに、初手から考え違いをしていたひとがいた。

 アマチュア・オーケストラでブラームスの音楽に人気があるのは、それぞれの楽器が主役になれる時間があるからだ。「みんなが主役」を実践させている。この精神がどんな仕事にも必要で、それが出来てこそみんなが輝くのだと思って私は作品の中でも実践してきた。

 混声合唱組曲「エイシア」(片岡 煇詩)のなかでは「エイシア」が、主旋律をソプラノからアルト、テナー・バスと歌い継いでいく。誰もが主役のメロディーを歌い継いでいけるようになっている。それは子どもの合唱曲「蝶の谷」でも同じだ。
 様々な人びとが主役になる。それをみんながサポートし合う。私の生き方だった。

懸賞論文から

 「坪能克裕とその周辺のこと」という文章が「音楽芸術」に載った。76年に音楽之友社・創立35周記念で、管弦楽曲と論文を公募し、その論文部門の一位になったもので、当時の都立目黒高校の生徒が応募した作品だった。

 70年代前半、前衛音楽の嵐が日本の作曲界にも噴いていた。その頃、私は音大生から卒業したての時で、創造と破壊の狭間で暴れていた。怖いものなど無かった若造の時代で、その狭間を鋭く突いていた。だから誉められた内容ではなく、いま展開されている現代音楽に問題が無いのかどうか、坪能たちの若い作曲家はこれでいいのか、疑問を呈していた。高校生としては破格の分析と論調に、今でも圧倒される文章だった。審査員が推挙するだけの説得力があった。
 私はあるがママ受け止めていたが、日本の音楽界では拙作の内容とは別に、エラく私が(悪役で)有名になってしまった感があった。

 その後の「坪能克裕とその周辺がどうなったか」については、誰も語っていない。私が正当化する問題でもないから、多くの人びとは現代音楽での活動は知られないママだ。「領域の拡大」を展開して、現代音楽が一般のひとや子どもにも、学校や文化施設から社会の様ざまな団体とも結びつき拡がっていく構造を作り展開させたが、自慢する内容では無いと思っていた。

 その文章から40年経ち、日本現代音楽協会(当時の会長が坪能)で新年会が開催された。祝辞を国立音楽大学の事務長さんから頂いた。そこでは70年代前半の私の狼藉を知っていて「アレで音楽だと思っていたのか」問われる内容に、私は顔から火を吹いたのを覚えた。優しい祝辞だったが、強烈で過去の犯罪は消えないのだと思った。

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