ひとは様ざまな音痴を知っている。歌うと下手なひともいるが、脳に問題がある以外、音痴だと胸を張ったり悩んだりする必要は無いそうだ。
 方向音痴というひともいる。痴呆症では無いので、自宅には帰って来られるようだが、案内図を見ても何度ひとから道を教わっても、方向が判断出来ず辿り着かない人もいる。

 「顔音痴」というのがある。努力しても人びとの顔の判断が出来難いことだ。音符の記憶に特技があるためか、音楽家でひとの顔判断に自信のないひとは結構いる。
 顔認識はコミュニケーションの基であり、人びとはそこから社会で生かされることになっている。だからそこが欠落していると、才能も何もあったものではないのだ。
 
 学校の先生は子どもの顔をいち早く覚える。卒業後も正確に顔を記憶している。顔と名前を覚えたら、性格が分かり、得意な才能も発見し生かせるようになる。子どもからしたら、顔や名前を覚えてくれない、ということは悲劇に等しいことだ。
 顔判断が鋭いことは、警察官もそうだし、接客商売には欠かせない才能だ。何度顔を合わせても初めて会ったような素振りでは、人びととの信頼関係は生まれない。

 (失礼ながら)大した才能が無いと思われたひとでも、顔認識が長けているとコミュニケーションが拡がり、仲間づくりから才能が生かされてくることが多かった。だから顔認識が得意であることは、もうその道の天才を授かっているようなものなのだ。